ほんのちょっとしたことにいちいち手を止めて、書きにくい理由とする。これは、私の場合には、例えば狭い机といった単体よりも、「狭い机+腰から下に漂う冷気」といった複数の組み合わせでより強化されていると気付いた。おかしいのは、より集中して書き進めたいと思う時、わざわざこのような書きにくい条件を揃えようとする場合があるということだ。そこには、制約があるから否応なしに頭を働かせざるを得なくなる、集中せざるを得なくなる、といった受動的な態度が窺える。それでも、この場合の多くは、複数の条件ではなく、単体であることが多いと思った。より集中したいなら、二つ三つと言わず、書きにくい条件に溢れていても良さそうなものだが、そうはならないところに都合の良さを感じる。わざわざ求める場合の一例には、ノートでなるべく改行やページ送りをしないで、文脈が異なるものなら尚更続けて書く/ボールペンとシャーペンの二択がある場合、シャーペンを使う、といったものがある。後者の理由だが、シャーペンのみを使うことにより、文字は均等に薄く書かれることになり、ボールペンよりは視認性が下がることになる。また、2種の併用だと、ハイライトしたい部分をボールペンで書くことで識別しやすくなったりするので、それを避ける意味もある。
まどろっこしいことをしてきたものだと思う。もっとも、どんな方法であれ、その結果、生まれたものが長く長く続くものであれば良いのだが、瞬発的な短い短いものが多数細切れのように散らばってきただけの気がしてくる。2日目の高山で、4時間程の散歩から宿泊地に戻ると、そんなことが浮かんできた。実に心地良い疲労を覚えていて、眠気もあり、ついさっきまで睡魔が誘っていた。書くという行為にあっては、これもまた制約だが、さホテルの狭い机は制約のはずだが、いつものことで慣れてしまったのか、今回はどうやら睡魔のみの単一の制約と捉えたようで、こうして書き始めた。散歩中に見た山の木々に、木を見て森を見ず以前に木の長い継続力をまず見ろと自分に言いたくなる。
4時間の散歩というのは、短いということはないだろう。疲労感で言えば、これまで3回程度自転車で完走したしまなみ海道の5時間半にも似たものがある。しまなみ海道の時も、ホテルに着くや否や襲ってきた睡魔に、シャワーを浴びて身を任せたら、夕方5時前だったが翌朝の5時まで熟睡していた。尾道に出掛ける予定を全て白紙にして眠るためだけに宿泊したようなものだったが、そんな睡眠にとても満足した時間だったことを思い出す。さて、今日の散歩もまた、書くという立場で自分を眺めると不満足だらけだが、それを上回る多幸感があるのも事実だ。時間を無駄にしたなどとは毛頭思っていない。とはいえ、さっきの制約の話を持ち出すなら、この散歩中こそ、ノートもポメラもPCもスマホも使わないで頭の中だけで書くと言う条件に晒されているのだから、存分に書けばいいのではないか?と思い当たる。眼前に次々と現れる、初見という意味でも新鮮な情報群を挙げれば、記録媒体が頭の中以外にないということと加えて複数の制約下にあるともいえるが、散歩ともいえないような短い時間の歩行中に、はっきり「書くことができた」と実感することならこれまで少なからずあった。だから、もっと長時間そういうことができても良いのにと思ってしまう。
ここで、そういうことができたらの話として続けたい考えが浮かんだ。それは、眼前の情報群には否応なく影響を受けるはずだが、それに大袈裟に反応することなく、全く別と思えることを頭の中で考え頭の中に書き残そうとするというのは、それほど失礼なことではないのではないか?ということだ。風景を見て反応している私と頭の中での書き物をしている私が、互いに質問をし合っている様子が浮かぶ。両者は互いに、質問にストレートに回答しないように努めている。でも、長くは続かず、相手の質問に回答してしまう。その光景は、名前が思い出せないが、あの小学生の頃に行っていたゲームのようだと思う。ゲームといえば、プレーヤーであることは幸せなことだと思うが、小学生の頃は、プレーヤー兼開発者だったりオーナーだったりしたことに気付く。複数どころかありとあらゆる制約下で、複数のことを兼務していたといえる。このまとめは、散歩のおかげといったところか。