洗剤の紙箱に、もう何十回目かとなる詰め替え用のナイロン袋に入った洗剤をセットしている。職住近接となってから、洗剤の減りも早くなった。昨日、その箱を持ち上げ、洗剤を投入しようとしていて、パッケージの文字が目に入った。「箱を持ち上げるときは横側を持つようにして下さい」のような一文が書かれている。時既に遅しといえば遅しで、私は上蓋を手にして持ち上げていたため、実はひと月ほど前、とうとう紙の上蓋が取れてしまっていた。その後は、一回一回取り外して、洗剤使用後は帽子のように上に被せるものとなっていた。
荒っぽい、雑な使い方のせいだ。こういうことが未だに起こるのは、自分本位の性格によるもので、洗濯に喩えるなら、簡単に洗い落とせるものではない。とはいえ、最初に紙箱に入った洗剤の一商品として購入後、もう1年や2年は経っているのに、今頃、それも箱の上蓋が取れたという意味で事後に、その注意を喚起する一文が初めて目に入ったというのはどういうことか? 花見の季節だが、花見に行く資格はないと思い始めた。まるで視野が狭いからだ。花見は桜を見るだけではなく、周囲の人々を見るだけでもなく、季節や時間の流れをその先や手前に見るものだとしたらと考えたのだ。
「たかが洗濯で」だとか「花見でそこまで大げさに」とは決して言えない。こうした明文化、発声を抑止し、本人の中で抹消させるような圧力があるとしたら、もっとも、それは当の本人が率先して実行していることが多いのだが、ちょっと待てと言いたい。それは一方で、いちいち言わなくていいことを明文化したり、発声したりしていると思うからだ。今回の紙箱の一文がその、「いちいち言わなくていいこと」に該当しているかどうかは、該当しているようにもいないようにも思え、どちらもありのようだが、該当していると思った。
もう一つ、これと似たことがあったのを、思い出した。新幹線がホームに到着し降車を始める一、二分前に、「ホームは混雑しています。降車口中央部から真っすぐに進んでお降り下さい。皆様のご協力をお願いいたします」のようなアナウンスを聴いたことがあった。アナウンスはほぼ定型文ばかりのようで、稀にこうしたイレギュラーなものが耳に飛び込んでくることがある。ともかく、このアナウンスを耳にしてすぐ、「なんでそんな当たり前のことをいちいち言うのか?」と思って、必要のない形容の言葉が書き連ねられた文字数稼ぎの原稿用紙のようなイメージが浮かんでいた。やたら改行を多用して、読者に依存してそこに意味を見出してもらおうとしているかのような、中身があるように見せかけている文章も好きではないが、こうした隙間を埋めることを目的としたように思える説明も好きではない。空虚なのに窮屈に感じるからだろう。
拡張現実だメタバースだ何だと取り上げるまでもなく、付帯情報がレイヤー表示としてリアルタイムで視覚化される機会なら、当面減ることはないのだろう。それならますます、こうした隙間を埋め尽くすような、文字数稼ぎのような文字や発声もまた増えるということだろうか? 言語化しにくいことを言語化するために、既存の言葉を使って進んでいく。それには、文字数や発声の分量は少なくて済むわけではないだろう。当の本人として、その言語化プレーヤーとして進めるのなら、しんどいことだろう。でも、さっき挙げたような空虚や窮屈さは感じないだろう。技術が変化し、それは進化だとされる場合でも、その一方では、こうした言語の使い方における退化ともいえるような変化が起こっているように思う。何故か?と考えて、現時点では、受け身であることに慣れすぎたからからではないか?と疑問に疑問が続いている。