Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ブレーキとブレークスルー

 その日の出来事から書き始めても良いと、当初の決め事を裏切るような考えが浮かんでいる。但し、という条件ならある。それは、書きにくい場合ということだ。続けてみる。今夜、帰宅中に来月で購入から3年となる自転車の左ブレーキが音を立てて切れた。初めてのことだった。昨年末、伸びて効きが甘くなった左ブレーキを点検してもらった際には、「大丈夫ですか?」と尋ね「ええ、大丈夫です。切れかけているように見えるのは、見た目の問題だけです。」と返答を得ていた。私の見立てが正しかったと分かった。自転車には悪いことをした。
 それでも、切れた瞬間にすぐさま浮かんだのは、またしても「うわ、不吉なことがあるんじゃないのか(もしかしてあの〇〇が倒れるのではないか)?!」という自愛な考えだった。縁起でもないことだが、〇〇には大切な親族を思い浮かべていた。でも、その場で自分に「自愛だ、いい加減にしろ」と突っ込むことはなく、代わりに似非科学的な想像をしていた。それは、こういう虫の知らせの類がよく当たるとしたら、それは偶然というよりも科学的で、その理由としては、人間は意識して確認できる自分の考え、今思い浮かんでいること以外に、その周辺にも意識的に捉えることが難しい、ありとあらゆるこれまでの記憶(言語化したものもそうでないものもという点で全記憶かもしれない)を保有しているから、虫の知らせに続いて本当に想像した悪いことが発生した場合、「当たってしまった!」と痛感し、悲しみに暮れながらも、虫の知らせが存在することに畏怖するのではないか?ということだった。要は、意識しにくいだけで、あらゆる不幸を想像しているから、そのうちのいずれかを思い浮かべて、それが当たっても、虫の知らせがあるのだと驚いている、そう考えたのだ。
 書くのが難しいことには、まだ全然至っていないと気付く。想像を超えたこと、その入り口に全然繋がっていないからだと思う。自分でブレーキを掛けているのか?と思う。ブレークスルーしたいのに。先の虫の知らせに戻ると、そういう知らせはもちろん絶対当たって欲しくない。その上で、自分の認識の周囲に全記憶があるという状態は抜け出せないものなのだとしたら、想像の種類を増やすしかないと思う。但し、この想像には、頭の中だけではなく、想像を超えた行動というものもあると思う。こう書くと、そういう行動は素晴らしいことを意味しているように映るが、想像を超えただけでは素晴らしいことにはならないと思う。但し、想像を超えようが超えまいが、行動が、その後の想像を良くも悪くもするのだと思う。