Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 お昼前、多分間違いなく八十代であろう老婆と言い表すほうが相応しい風貌の女性が、背中を九十度近くに曲げて閉まる直前の電車に乗ろうとしていた。立ち止まってしまった。奇跡的と言ってもおかしくないくらい、時間の流れがいつもより遅くなったかのように、老婆を特別に待つように電車はいつもより長く停車していた。こう書いたのは、たまたまだと思ったからだ。決して、老婆を待とうとしていたのではない、そんな空気を感じていた。
 問題は、老婆がマスクをしていなかったことだ。これがまず足を止めるきっかけになった。背中は曲がっていて、動きもゆっくりとしか動けないように見えるものの、その表情は漲る元気さゆえに皺が刻まれているといった風で悲観さや疲れた感じは見受けられず、むしろどことなく笑みが感じられるものだった。目を逸らしたいが私は見ていた。あるいは、今は、見ていたが目を逸らしていた、と書く方がいいと思いもする。
 この最近の状況下で、マスクなしで車内に入るということにたまらない気持ちになるのは間違いない。一方でそれは、たまらない気持ちであって止まらない気持ちではない。結局、この光景は書いて残しておかなければと思ってこうして書くくらいだ。ただ、書いているうちに思いもよらぬ発見があるだろうという都合の良い理由付けなら、昼過ぎには既に用意済みだった。
 その光景に程なく浮かんだのは、通常のサービスの享受(それには生命に関わるものが多々含まれる)と自身の間に壁あるいは乖離、つまり距離が生じている老婆は、一方で、多くの人が現実味を覚えず、あるいは思考停止したくて考えないようにしている死の世界に対しては距離を感じず、連結した車両間以上に隣接したものとして移動している、その表面的に可視化された動きがこの乗車の光景だったのではないか?ということだった。要は通常の人とはレベルの違う正確さと気楽さで死に触れることが容易くできるという点で実にアクティブな体を老婆は駆動させていると思った。
 正しいや正しくないではなく、そのように浮かんでいたことを記録しておく。でも、具体的な行動がないと老婆は守れやしないことも今更だが書き残しておく。無力を挙げ連ねることは、仕事での言い訳以上に格好悪いのだが。「無力だから出来ない」や、「無力だが出来る」でもない、「無力だが出来ることを考える」という思考に乗り込もうとしにくいのは何故だろう。
 夜、帰宅前に自転車で大型のショッピングモールに立ち寄ろうとしていたら、突然警備員が駆け出して私を追い抜いて走っていった。その先には、初老の女性と思しき倒れ痙攣している人と介抱している二人、一人は若い女性が目に入った。警備員が何やら話し掛けながら立ち止まった。「救急車は呼びました」という声が聞こえてきた。今度は私が警備員を追い抜いたものの、数十メートル程走って立ち止まった。一連の自分の動作は咄嗟にといえるものだった。店には寄らずに帰ろうと思いながら、しばらく数十メートル先の光景に視線を向けていた。救急車が数分ののちに到着した。少しだけほっとしたものの、それから救急車は体感にして10分以上停車していた。救急車が動くまで、ここにいようかと思ったが、その女性に失礼だという考えを思い浮かべ、それを選択するように帰宅した。悪い方向に向かったとは限らないのに神妙な気持ちを演じるかのように、暫くはスマホも見ない時間がごくわずかに流れた。入浴後、その中途半端な気持ちは中途半端に洗い流されただけだったのか、すぐに現れた。そしてPCに向かっている。
 こうした無力さを拠り所とするかのような、それでいて綺麗事とは認めないままで無力さから逃れるんだという主張はしたがっている文章が、第三者の何か役に立つことがあればどれ程いいだろうと思う。直接何もできなかったことに対する言い訳が言い訳ではなくなるようになるくらい。そう思いかけたが、誰かの役には立ちたいという気持ちはあるものの、言い訳ではないと自分で思うようになるのは恐ろしくて嫌になる
 書こうと思って書くというのは、食べるや生活するといった他の行為の場合と違って、唯一的に認められる。これは不可思議でもある。いずれの行為にも思惟が伴う以上、そこには書くが付帯している。それなのに、しようと思ってすることを認められないというのが大半の行為だからだ。