Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ネコノミー症候群

 昼間、ランチに向かう自転車の車上から、いつもの一軒家の猫が、今日は茶飲み友達のような猫と共に、将棋を指すような姿勢で向かい合っていた。こういう時、スマホで撮影は容易いはずなのに、決まって撮影するのが憚れ、立ち止まったとしても意を決して通り過ぎてしまう。かけがえのない瞬間なのは間違いない。それでも、この場合の撮影は軽率だと思う気持ちがどこかにあるのだろう。
 その後、表面的な多忙にかまけて、ついさっきの帰宅間際までその光景を忘れていた。思い出したきっかけは、自転車を施錠しながら、「そういえば、あれだけ『二重ロックを』と啓発されているのに、自宅の駐輪場ではほぼしてこなかったな」と思ったことだった。まだ迷いがあるが、否応なしに旅への出発の日が近付き、施錠を意識するようになって思い浮かんだのだ。
 「施錠していないのに、盗まれることはない」―何も悪いことではないが、奇妙に思う気持ちが自然と芽生えているくらい、盗まれるのも自然のような狂った感覚が、微かにせよ、自分の中にあることに気付く。でも、盗まれないことが当たり前か否かよりも先に、こういう状態そのものもまた、かけがえのない瞬間だと思った。これが、昼間の猫に繋がった。
 繋がるといえば「飼い猫、野良猫」と口にして笑ったりすることが未だにあるが、私もまた、彼らに飼われているのかもしれない。見えざるとも、猫と違って、人間ゆえに鎖で繋がれているのかもしれない。そういう風に捉えるのは、別に斬新でもなんでもない。だからといって、軽率でも陳腐でも低俗でもない。ただ、一方的に飼う飼われるの固定した関係だけがお互いの間にあるのではない、とは言いたい。
 固定といえば、オフィスで一人になった後、こんなことも思った。「フランスとかドイツとかオランダとか、超メジャーな国のことを考えていると、逆に、目に見える全てのことや全てのメッセージに、アメリカが付着しているように思えて、それらの国がどこかマイナーな存在に追いやられてしまったかのような、でもそこから別に反抗したり思考を巡らしたりはしないから、精神的な糖尿状態というか流動的ではない停滞と、それゆえの倦怠感を覚えてしまう」と。この一文自体が今眺めると、停滞と倦怠に溢れている。これじゃ、搭乗前からエコノミー症候群というものだ。猫の毛で思いっきりくしゃみをしたり、猫のノミで痒くなって身体を掻きむしったりする方がまだましだと思った。後者は、かなり辛いだろうが。