Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

餡巣

 「でき餡巣。」このような文末を目の当たりにして、またかと思い、「できます。」に修正する。こいういうことをもう何年も続けてきた。今日、この誤変換をしたわけではないが、今年になってから一度以上あったのは間違いない。20数年前、マイクロソフトのWORDの練習でほぼブラインドタッチを身に付けることになったが、数年して右手の中指を負傷して絆創膏を貼っては替える毎日が続くうち、右手の人差し指を多用する癖が付いてしまった。その独特のキーボード操作によって程なく現れたのが、この餡巣だった。中指の怪我が直ってからも、入力時の癖はそのままだったから、現在も餡巣が登場し続けている。先日、検索したところ、同じようにこの変換をしている人がいることも分かった。
 今日、近所の大型ショッピングモールを歩きながら、この餡巣を思い出して、「こんなに登場していて、他にもこの変換をしている人もいるのだし。、誤変換とも言えないな」と思った。今、改めてこの文字面を眺めると、美味しそうだが地面に落ちて蟻が側に来ているようなイメージも抱いた。一方、それでもまだまだ綺麗にまとめようとしているという意味で、綺麗事だと思う気持ちにも気付く。どこか自分で自分に追い立てられて、慌てて入力し続けてきたからこそ、この地面に落ちた和菓子のような二文字は登場しているのだし、いったん立ち止まって入力の癖を正そうという期間を設けなかったことを如実に示しているのだから、だらしないという点では全然綺麗なものでもなんでもないと思ったのだ。矢面に立ってもらって、餡にも巣にも申し訳ないことをしている気持ちになる。
 続いて、反論を試みることも必要だという気持ちも現れた。私も、集合無意識的な集団心理のようなものとしての周囲も、両方に責任があると思うが、儀礼的だったり形式的だと分かっているのに、「です」「ます」をはじめ、もっと分かりやすいのが、さっきまで対面で話している時には「お願いしますね」だったのが、別れた後のメールでは「お願いいたします」や「お願い申し上げます」に変わったりする、そういう手順がこの餡巣や、メール入力の自分に急かされる事象を生んでいる一因でもあるのではないか? そんなことが浮かんできた。
 この反論の正誤よりも、どう考えても肯定できない、反省するのが当然だ、と言う場合にも、それでも反論を試みる必要性の方が気になっている。そんな反論をするとなると、否応なく理由を見出す苦労が伴うことになるし、その苦労に意味を見出していたのだ。実は、これと似たことが他にもある。それは、毎朝毎晩コップに水を汲んで蝋燭と線香に火を灯し先祖に挨拶するという、当たり前な人にとっては当たり前のことを私も行っているのだが、その際、ただ南無阿弥陀仏というだけではなくて、自分なりに自分に課していることがあった。もう多分ここ4、5年は行っているはずだ。それは、朝はその日を迎えることができた感謝と大雑把な今日どういう風に過ごしたいか?といったいわゆる目標(この言葉には抵抗を覚えるが、第三者には伝わりやすいと思い仕方なく使っている)を話し、夜にはその結果(大体が「できなかったです。申し訳ありません。明日は~」という反省と言い訳のような目標の公表となることが多い)を話すというものだ。生家での菩提寺をそのままに、特に絶対的な信仰心によるものでもなく続けてきただけだったが、幼少の頃から、「先祖を敬うのは、たとえ将来自分がどの宗教(無宗教を含む)を選んだとしても、絶対外さないだろうな」という気持ちが、明文化して意識したわけではなかったがあったと思う。
 最近、というのは昨年末のことだったろうか、この毎晩の報告のような行為に、「何がどうあろうが必ず「今日は最高に素晴らしい一日だった」として「その理由」を述べることを自分に課すと俄然この時間が意味あるものになるのでは?と思った。前置きが長くなったが、これが、先の反論に似た苦労の伴う自分への仕掛けだ。ルーティーンだったり、定点観測だったりといったことにはどこか抵抗を覚える自分もいるのだが、同じ時間がないレールには乗っているのだろうから、その上でルーティーンや定点を設ける楽しみも会って良いだろうと考えることにした。その一方で、先の「餡巣」にお経のように意味を設けてしまうのは、接近し過ぎ、つまり停滞というものだとも思った。