Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

地下と空と自分の内

  今日の昼過ぎ、札幌の地下街に向かって階段を降りている途中で、そうだ、いい加減、地下について書かなければと思った。気付けばもう十年以上前から地下の空間に居心地の良さや奇妙な魅力を感じていたのだが、考え抜いた実感がなかった。一般化できることではないのだろうし、個人的だとしても、これまで経験した地下の空間という、地下の空間の総数からしたら極めて少ない偏った母数から思い起こすイメージを元にするわけだから要注意だが、気持ちの良いことばかりに終始しなければ地下に降りながらもしんどい坂を上るような経験も得ることができるだろうと、書き始めることにする。
 居心地の良さだが、似ているものはないか?と考えて、こたつの中が浮かんだ。実際の空間の大きさや照明の明るさとは別に、こたつの中の、閉塞感は覚えないが広くはない、真っ暗ではないが薄暗い空間と似ていると思った。このこたつははっきり、自分の幼少時にはまだ一般的だった、赤い光を放っていた赤外線こたつのことだ。決して大きくないはずなのに、家族3人に来客1名くらいの利用を余裕で受け入れていたような記憶がある。薄暗いといえば、そのこたつのあった空間自体にも薄暗い印象を覚える。これもまた、実際の明度とは無関係な印象だ。実際、蛍光灯が明明と部屋全体を照らしていたからだ。それでも、その薄暗く感じる空間に、気持ちはむしろ明るくなっていたような気がする。少なくとも思い出している今はそう思う。青空の下での開放的な空間で得る眩しいばかりの明るさとはまた異なる気持ち良さを思い出す。また、青空といえばどうしても快活な動作を思い浮かべるが、そうした元気の良さとは異なる表面的には静かな躍動が、その薄暗さにはあったとも思う。
 ここまで、地下に設けられたフリースペースにあるテーブルを使わせてもらいながら書いている。私の周囲を沢山の人が通り過ぎている。また、少し離れた席という席には、食事をしたり談笑したりスマホを眺めたりしている人がいる。前日まで居た秋田でもこの札幌でも、ちょっとした腰掛けスペースをよく見掛ける。そういう無料のスペースを見ていいなと思う反面、こちらの感覚が麻痺しているのだろうか、心配にもなってくる。そんなにサービスして、誰か悪利用したり汚したりしようと思えば簡単なだけに大丈夫かな?などと思うのだ。素敵な空間だと思いながら、そのバランスが崩れないかを勝手に心配するもそのまま通り過ぎる自己満足な感情に気付く。通り過ぎないでもう少し観察してみる。外と自分の内を交互にでも。程なく、時間のことが浮かぶ。確かに周囲のこの地下の光景はリアルタイムのものだが、少し昔、もっとも昨日とかましてや数年前とかではなく、数分前のような印象も受ける。そう錯覚してみようと試みたところ、難しくなくそう感じることができたのだ。自分の都合の良い感覚だとしても、数分前というところは信用できる方だなと思った。ともかく、数秒だろうが未来の光景には思えなかったことに意識が向かう。そして、過去の方が未来よりも優しいと思っている自分に気付く。過去といえば、さんざん過ちを犯してきた過去、といった風に、未来よりも否定的に語られることが多いとも思うだけに、少し奇妙でもある。
 頭の中もまた、まだ地下の中にいるのだとしても、平坦な道を進んでいるか休み始めているようだ。もっと地下の坂を上ってみる。自分の表現に酩酊している場合ではないが、こんな一文を書く時、うまいこと説明を含ませることができた気がして、考え抜くのをさぼっているという自責の念をごまかして進もうとしていることがある。他には何が見えているか?淡々と説明をこの場に残すことの方がまだましだろう。この文章を書きながら、ボタン一つで地上と地下とを入れ替える光景が浮かんでいた。技術的にどうこうという実現性は、もちろん無視しているものだ。何故こんな光景が浮かんだのか。後付けの理由なら、例えば、それぞれの空間の有り難さをその場の一人一人に際立たせるための仕掛けとか、もっともらしいことが浮かぶ。続いて、この仕掛けは、サービスなのか、サービスだとしたら、政府や行政によるものなのか民間企業によるものなのか?といった起案や実行を決断した先についての問いが現れた。最初は、そんな「反転装置」が政治的に実行されるなんてたまったものじゃないなと思い掛けるも、一人一人が望んで実現したのだとしたら、全然悪くないじゃないか?と反論も沸いていた。その一方でまた、集団が望んでいるとされることには、個をどうしても取りこぼす一面があるのではないか?と思いもする。そして、この反転をサービスや仕組みではなく、いたずらとして頭の中で成立させようとしていたりもする。そこにまた逃げを見る。
 間違いないと思うのは、いくら新鮮な体験であったとしても、慣れや麻痺が生じることだ。だから移動し続けることに意味がある、というのでは性急な結論かもしれない。もう少し続けてみる。地下とは逆に再び空に目を向ける。すると、そこには雲があることも多い。当然のことだ。雲があろうがなかろうが、人間にとって空、大気の様子は観測された結果、気象という形にもなる。特定の表情として捉えられる。それでも、その一度として同じ表情を持たないであろうその表情には、実は何度か全く同じ表情があった、でもそれが人間によって認識されることはなかった、以前こんなことを考えたことがあった。だから何だ?とも思う。そして、行き止まりを見付けて止まるのなら、逆に進もうと思う。雲を見習おうと考えたわけではないが。この場合、空の逆方向には地下もあるが、それは元の位置でまた同じことの繰り返しのようだから、自分の内を眺めようとする方が、よりしんどそうで進むべきだと思った。そして、自分の内は、複数の対象に対して、逆の位置にもあると思った。自分の内こそ、地下であり空であるということか。