Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

下書きと括弧

 下書きから使用せず、ゼロからではないとしても一から書き始める。今何を書くべきか?と考え、浮かんで採用したものから書き始める。それからはもし、下書きにあったなと思う場合には下書きを参照する。この流れで書く方が良いと考えた。

 前回別の場所で書き残した通り、過去の文章をブラッシュアップするというか、過去の文の上に書くような姿勢の方が自分への負荷を伴うので良い文章へ近付くと考えるが、冒頭に挙げた順番は大切だと思う。要は楽をしないということで、かつて、悔しいかなこれは他人の発言だが、書くことがなくなってからがスタートだ、ということだろう。今の私の場合、そのスタートが下書きをいきなり最初に参照しないという書き始めに当たるだろう。

 今朝頭の中に浮かんだのは、括弧の多用についてだった。もっともこれは十年近く前から気になって少しだけ考えそのままにしていたものだった。そういう意味では、頭の中の下書きを使用したということにはなる。でも、それは良しとしてもいいのではないかと思う。頭の中に浮かんだことは主体的に選んだ度合いが、見た目にある下書きから選ぶ場合よりも高く、より書く入り口に近い場所にあると思うからだ。その括弧の多用とは?だが、括弧は文字通り、( )だとか「 」のことで、想像だがこの数十年で文中への登場がある時以降、急増したまま高止まりしているのではないかという想像のことだ。書き手が何かを語ろうとして書いている途中で、補足的にそれらは登場することが多いだろうし、さらには何も数十年前から登場したわけではなく、もっと以前からあるものだ。でも、私に限っても幼少時にはこんなに目の当たりにはしなかった気がしている。それは、目にする媒体の違いにもよるだろうが、青年期の手前からそれ以降になると、既に高止まりしていたような印象を覚える。それは、自分自身がいつの間にか多用するようになっているということも意味している。

 何故そう思うのかといえば、多少なりとも使用前に違和感を覚えたり、ああまたここで使うのかといった風に、括弧へ意識を向けることがあったのを思い出すからだ。違和感について言えば、括弧で補わずに一文ずつ順番に言い切れば良いのにそうもいかないと今自分は思っているな、だとか、この括弧でのこの説明の追加は要するに言い訳だよな、といった自問自答を経たのにそれでも使用することでの後ろめたさもあったし、もっと直接的な行動に出た場合もあった。それは、書店に行って何でもいい、目の前にある本をランダムに手に取ってめくってみて、そこに括弧のないページが見付かったら何かいいことありそう、といった遊びのようなもので括弧が登場しないページとの偶然の邂逅を求めたというものだ。その結果だが、大体は括弧が登場しているページだった。また、「 」と「 」が頻出する対話なのか会話なのか分からないが「 」の使用は、その文が示す意味を限定的、あるいは記号的に集約しやすい点で分かりやすい気がして、読み手を誘導する効果があってどこか軽薄で卑怯だなと思うこともあった。くだけた表現を意図的に使うのにも似た、どこかいやらしさを感じていた。

 そういうこともあってか、句点の多用には繋がっていると思うが、「 」を意識的になるべく使わないようになった気がする。この文章も例外ではないだろう。なるべく、一文一文で言い切るというか。ただ、これがもうそうだが、~だろう。で終わって、~いうか。のように続けている。これは実質、括弧的だし、括弧を使わないことが目的化していて、ちょっと貧相な自分を見もする。でも、そういう書き方を存外繰り返していると気付く。

 何かキョロキョロしているなと思う。もちろん、注意深く周囲や状況を観察するのは何も悪いわけではない。素晴らしいことも多いだろう。そういう観察とこのキョロキョロは違うはずだ。参照すべき、ちょっとした、出来合いだがそつがない半完成品のような考え方、書き出し方、結び方の雛形があちこちにあるのかもしれないと思った。そういうのに、沿わなければいけないという気がするのではないか?また、括弧の多用は、それと対を成すものがあり、その一つに衆人環視的な強迫観念の急増と高止まりがあるのではないか?とも思った。相互作用もあるかもしれないと思う。つまり、括弧を多用することでの悪循環、衆人環視のバイアスの強化といったものが浮かんでいた。

 一方で何も、括弧の形を取った括弧ばかりではないだろうと思う。ありとあらゆるところに形を変えて存在している気がする。例えば、~について、というタイトルがある時、そこにも隠れた括弧を見た気がする。補う言葉が浮かばないから付与しているのが、この~ついて、の場合も多いのでは?と思う。使用する中身を何も持たない括弧のような言い回しといったところか。とはいえ、「について」と書いた方が、この場合はっきり分かりやすいことにも気付く。括弧を使うべき時は当然あるわけだが、括弧の眺め方を誤って自らの視界を塞いでいたかのようだ。

 こんなことを考えながら、他にも括弧の中に括弧がある、( 〈 〉 )のようなケースもあるよなと思い出した。どうせなら、延々と括弧の内部に補足し続けることがあれば、それはそれで大変自分の頭の中に負荷を掛けることになるだろうから、良いかもしれない。そして、東京への飛行機に搭乗した。機内では程なく、昨夏ならまだ飛沫防止眼鏡を掛けていたはずのキャビンアテンダントが皆裸眼かコンタクトのようで何の眼鏡もしていないのに目が向かった。俯瞰的に眺めようと態度を改めながらも括弧にまだまだ捕らわれていたからか、ほんのわずかながらも、何か本来は括弧で記されていたはずの説明を隠されたか削除されたかのような気になった。何でもものは言い様である。でもこの一文こそもはや、この場では削除すべきものだろう。長年生活した都内への道中、羽田からのモノレールはまだ新鮮だったが、山手線を経て総武線に乗り込んだ途端、またしても括弧に捕らわれることになった。自分の東京での二十年あまりの時間とは括弧の中に流れている時間でしかない、そんな気がしたのだ。仮に鬱血したような時間があるのだとしたら、括弧を外して開放するしかないなと思った。一文ずつにする方法を考えないといけないということか。でも、括弧が外れたとしたら、割と様々な文脈に向かって流れることができるはずの時間だと思った。もっとも、括弧は取り外せばいいというものでもないだろう。括弧内やその前後をまとめて下書きに戻すという方向だってあるはずだ。この下書きは早々に非下書きとして再登場させたいと思うものだが。