Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ノートあるいはニンジンと紅

 大事なことを今朝、確かに思い浮かべていたはずだがあとの祭り、昼にその実感に気付いた時には忘れていた。―何故メモしなかった?でもメモするような余裕がない方が信用できる気もする―という自分に続いて、―殴り書きでいいからメモすべきだった―という自分も現れた。ランチに間に合わず訪れた喫茶店で長居しながら、帰り際になっていそいそと何かを頭の中から引っ張り出そうと探り、こんなことを書き残した。全然展開がない。つまり、苦しみがない。あるのは、季節外れの湿っぽさくらいだ。帰宅中に賭けようと思い、店を後にした。
 記録できる環境にあるのにそれをせずに数十日や、時には数年を過ごす。そんなことが体感上はコロナやミサイルよりも身近にある。恐ろしいことだ。昔なら何でも良いわけではないが、この場合の昔を思えばまず浮かぶのは、記録できなかった環境になる。例えば、祖父母が十代だった明治後期、文明開化の鐘の音は多分もう落ち着いていたはずだが、資源としての紙や筆記具だけではなく、一人何役もの労働が一日を埋め尽くしている場合も多かったはずだ。殆ど覚えていない、祖母が一緒にいてくれた沢山の密度の濃い幸せそのものの時間に、そういう話を聞いた記憶なら、ほんの少し残っている。はっきり覚えているのは、自分達がいかに苦労したかの話はなく、警句や注意が多かったことだ。「(私の自堕落な生活態度に対し、ものを粗末にしている人を含め) それこそ“ 人のふり見てわがふり直せ“ というものよ」「何をしているの?紙を無駄にしたらダメ!」といった言葉や、マッチを新しく使って火を灯せばいいのに、紙切れだか木の枝だかを練炭に突っ込んで火を移してから、仏壇の蝋燭に向かったりと、枚挙に暇がない程の実践を強要することはなく示してくれた。
 それに比べて、と、いくら個人情報や機密情報が記載されているとはいえ、会社でのプリントミスや不要となった文書類にある、まだ十分、文字や落書き等が記載できるスペースの広大さったらないと昼間の時間を思い起こす。祖母の話からオフィスに移動すると、真冬から急に真夏へどころではない変化で、心臓への負担が半端ではないだろう。祖母ならこの余剰を何に使うだろうか?いや、こんなのいくら現実でも、仮に今生きていたら尚更、死後であっても願わくば祖母に見せることはできない。傷付けてしまうからだ。傷付いてずっと過ごした人をもっと傷付けるくらいなら全て無くなった方がいい。そんな隠れ蓑の言葉がまた出てきたので、一呼吸する。その前に、祖母達はどこに記録していたのか?とも思う。祖父がまだ村だった私の地元で、地域の皆のために何度も自作の劇を作っていた話を祖母から聞いたことも思い出した。それははっきり、何かに書いて記録して考えられたもののはずだ。頭の中だけで作り上げられたものとは思えない。そんなことができるなら凄いが、一方で、物理的に書かないことを目的として書いていないだけのようで、わざわざそんな目的をはき違えたような断食的行為は不要だとも思う。ともかく、祖父は書いていた。
 祖母は?と思うが、すぐにメモが浮かぶ。言葉通りのメモで、前月のカレンダーか何かを切ったような紙片だった。そこに、鉛筆で「ニンジン」や、他には忘れたがおそらく食材の名前が縦書きのカタカナで書かれていた。前述の通り、ありとあらゆる祖母との時間を忘れてきたが、これは比較的鮮明に覚えている。ニンジンが特に好きだったわけではないのだが。実質、この紙片はリトマス紙とでも言おうか、古くは赤紙とでも言おうか、いやそれは適当な喩えではないな、ともかく私に対して笑顔ではない表情で疑問を投げ掛けてくる祖母の写真のようなものだ。あるいは、膨大なノートそのものだ。まだ触れるには早いような気がして、一文字も書き残したくなくなる。このごく小さな、今は頭の中にしか残っていないスペースが、物理的なスペースの余剰あるいは供給過剰を吸収するかのように思えてくる。それにしても、生産者たる人間の意向次第だとしても、ニンジンの方が地表というノートに対し誠実に記述を進めている気がしてくる。生産した紙、ノート、その他諸々の記載可能な工業製品群が未使用の果てに廃棄されるとくれば、残飯を見るよりも嘔吐感が湧いてきた。一つ一つ無駄をなくす、生産量を減らすという方向だけでは減らない気がして、もっと違う方法でそうしたノートをどう使い切るか?という問いが浮かぶ。それができないと、祖母の紙片にいつまで経っても触れることができない気がする。一つ浮かんだ方法に、書き終えたものであっても、未だ未使用のスペースはないか?と問うことがある。これはもちろん、物理的なスペースだけを意味してはいない。
 このノートの消費方法同様、今のところは証明しようもないことだが、ちょうど狙って買ったように偶然にも、普段なら殆ど買うこともないので食べることもほぼない「焼きいも」を仕事帰り、いつものショッピングモールで買っていた。「焼きいも食べ比べセット」というラベルが貼られ、3種の焼きいもが入っている。それを閉じている透明のケースの上には「紅優甘」「シルクスイート」という2枚のシールが貼られているが、一番左の焼きいもに対しては間に合わなかったのか油性ペンで「紅天使」と書かれている。買った時も「ん?」とは思って殆ど潜在意識下すれすれで少し笑った程度だったが、帰宅後この場所で考えて書き進めている中、あ、そうか?!手書きがあった!と思って手に取ったらぐっと来た。全然詳しくないが、こっちの今の感情だってXの「紅」に負けてはいないと思った。