Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

猫の額、短い冬

 結局何が一番言いたいのか?書きたいのか? そう自分を責めている陰で、毎日毎日日替わり定食のようにバラエティに富むものが頭の中に浮かぶというのも変だ、という自分も今朝現れていた。そんな二面性にバツの悪さを感じはしたが、そのまま家を出て、仕事を始めるとすぐに忘れていた。今そこに付け加えるなら、言いたいことはイコール書きたいことなのか?というのもある。日中は日中で、打ち合わせ前の30分程の空き時間を使って、頭の中に引っ掛かっているものを探そうとしていたが、結局、自分がいるイートインの狭いスペースにそのまま影響を受けたのだろう、「猫の額に喩えられるような狭いスペースだとか短い時間だとかの方が、その逆の広かったり長かったりするものよりも何故集中できることが多いのか?」と、そのままにしていた個人的な傾向でしかない持論を思い出していた。かれこれもう十年程前に「猫の額は狭くない」というタイトルを付けて友人に話していたような内容だから、またその繰り返しは嫌だなと思いながら、制約を感じるようになって開花する集中力や能動的な姿勢というのはあると思うが、それって何だろう?と考えていた。「猫の額は~」の頃なら、「狭い場所だったり短い時間しかない環境下にもかかわらず、密度が濃かったり質量の多い作品が生み出されることがある。これはいわば猫の額は狭くないということの端的な一例だ」みたいな無茶苦茶なまとめ方をして友人に笑いかけて引きつった笑顔を引き出して終わっていただけだから、それに比べれば問いを立てているだけまだましかもしれない。
 その問いへの回答だが、AT車クリープ現象に似ているというか、人間というか私の集中力や物事への姿勢というものは、放っておけば途端に離散する性質を元々帯びているからではないか?と思った。それであれば、集中してやってやろうじゃないかという気にもなった。自然に逆らう態度もどこか残して置きたいと思っていた気持ちに久しぶりに再会した気がして、少し嬉しくもあった。というのもここ数年、想像以上に自然を好きになっているのに気付いていたからだ。自然を自然に好きになっていた、というのが単なる言葉遊びじゃなく事実としてあった。とはいえ、自然を不自然に好きになるなんてことがあるのか? あるとしたら、それは好きだと思い込もうとしていたり、そう見せかけようとしているだけではないのか? いずれにせよ、自然を不自然に好きになるなんてことは気持ちが悪く、御免被りたいものだ。
 さて、制約の話をしていたのだった。が、ここで夜思い浮かんだことを挙げてみる。21時過ぎの夜道を帰宅中、「ああ、これを元に考えて書きたい」と思うことが浮かんでいた。正確には、これも先日思い浮かんですぐに忘れていたことだった。何かというと、「短い冬」という言葉だ。「何故、冬はだいたい『長い冬』と形容されることに偏っているのだろう?」と後から理屈を補うように問いを思い浮かべて、「『短い冬』っていいじゃないか?!」と少しわくわくしたのを最後に、またしてもいつの間にか忘れていたものだった。
 冬もまた自然同様、もっとも自然の一部なのだから当然か、いや、あまり好きではない季節(これも自然)もあるから当然ともいえまい、とにかく、ここ数年好きになっていることに気付いた対象の一つだ。自然と違うのは、冬は幼少時は特に好きではなかったということだ。好きでも嫌いでもないのが大きな存在たる自然だったとしたら、季節における冬より夏の方がはるかに好きだと口にしていた。小中高から大学へと、ずっとそんな感じで、30代もその延長だったと思う。ただいずれも、本当はそれほど夏が好きでたまらなかったのではないということに思い当たる。というのも、その当時既に何となく気付いて誤魔化していたが、自分自身のイメージ作りのために、夏が好きと主張しているその度合いが強かったと思う。もちろん、解放感や昼と夜のコントラストといった実際に夏に見出す魅力というのは確実にあったが。
 そんな、精神的な意味で薄汚い中年のような小細工を画策する自分というものが少年期以降ずっと残っていたはずなのに、それが消えたのか、いやたとえ残っているとしても、夏よりも冬が好きになっているのに気付いた。少なくとももう4,5年くらい前にはトンネルを抜けたら冬が好きだったみたいな見事な変化を成していた。「短い冬」という言葉は、急に思い浮かんだと感じるものではあるが、そういう冬への意識の変化が育てた言葉のようにも思えてくる。好きこそ言葉の上手なれ、などという軽口も今出てきた。嫌いという感情でも、自分の中に新たな言葉を浮かび上がらせるのだろうが、それが増えるのは嫌だなと思う。理由を考えてみて、それは嫌いな類の冬、言ってみりゃ氷河期のような状態を自分の頭の中に築き上げるように思えるからだ。