Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ドゥッ、ドゥッ、ドゥッドゥッ、ドゥッ、ドゥー

 気が付くと、鼻歌を口ずさんでいることがある。少なくない。ついさっきも、文字にすると「ドゥッ、ドゥッ、ドゥッドゥッ、ドゥッ、ドゥー」とでもなりそうなのを口にしていた。このカタカナの上にコードを付けても、これを読んでいる人の頭の中には私が口ずさんだメロディーは再生されないと思うが、それは残念な一方、コードという制限がメロディーの解釈の幅を拡げるようで面白くもある。残念なことなら他にもあり、それは、こういう鼻歌だけでなく自作の曲を考えている時、いつも頭の中に「どんなにオリジナルだと思っても、絶対に借り物なんだよな」と思い浮かんでいるということだ。そんなことまで言えば、文字や言葉だってその何者でもないわけだが、それらは一部のものには思いはしても全部が全部に対して借り物という感覚は覚えない。一方で、鼻歌や自作の曲には、オリジナルだと思えるものに対しても、結局は理性的に、どこかでインプットした外部情報が材料となって自分の頭の中を通じてまとまったもの、という認識を持つことになる。そういう矛盾が残ったままだが、オリジナルという概念を崇拝しているのか、オリジナルの道が最初から閉ざされているような考えに陥って、少し脱力してしまう。
 でも、借り物とは言ってみたが、果たして一方的に私が外部情報を借りているだけなのか?と言う疑問も沸いてくる。まだ意識を持ってはいないであろう、文字や言葉やメロディーは、当然ながら私も含めた人間や、その人間が人間的機能を求めて作成した装置からによってしか出現しないはずだが、いったん出現したものには、単体もしくは異なる単体同士の複合体として、意識を持つのと似た固有の存在になっているものもあるのではないか?――疑問は続き、「彼ら」は人間を借りていると言えるのではないか?とも思うことになった。お互いに借り合っているのだとしたらフェアではあるが、何か貧相でもある。
 もっとも、こういう発想自体が貧相かもしれず、借り物を助け合いに言い換えるだけで、印象はまるで変わってくるのも確かだ。こう書きながら、助け合いの上に覆い被さるように、馴れ合いや舐め合いという言葉が現れもする。こうなると、自分以外の物理的な他者の存在、対話だとか会話の意義を再発見した気になる。答えに辿り着きそうでそうならないしんどさを覚えながらも、少し可笑しくなる。それは、他者や対話や会話こそ、そういう馴れ合いや舐め合いに突き進む媒体というか張本人でもあるのに、一方で、そういう性質と逆の性質を生み出すものにもなっているのか、と人間に対しラプソディーのような親しみと愛おしさのようなものを覚えたからだと思う。
 一方向だけに偏らないでいないといけないが、そのためには一方向だけに偏った時間も必要ということだろう。―自分にとって、この仮説はおよそ正しく価値のあるものだとしても、こういう言い回しを使い過ぎている自覚が、随分以前からある。言葉の数や種類だけでなく、その言葉が持つ意味を増やすことが必要だと思う。単語レベルではなく一文やもっと長い文章同士で、同じ意味だとか反対の意味だとかといった関連性を見出すことがもっとないと、同じ意味の言葉を繰り返しただけの物言いが今後も続くことだろう。この場所での決意として挙げた「同じことしか書けないなら同じことを増やそう」というのと矛盾しているようだが、両方求めたいことに気付いた。