Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

「したい」と「したいため」

 「(何々)したい」という言い回しで浮かぶことを、そのまま書くのに、もうここ十年近く抵抗があるのに気付いており、それはもう嫌気を覚えるという程度になっている。今日は、仕事を中心とした一日だった。漠然とした不安感も仕事寄りに漂っていたように思う。まだまだ余裕があるというわけだ。そういうわけで冒頭の一文は、ついさっき浮かんできた。それにしても、理由を突き詰めていないことが多いと思う。これも例に漏れずだ。
 「したい」が「死体」を喚起するからという理由ならむしろ問題は深刻ではないだろうが、やはりそんな理由ではなさそうだ。程なく浮かんだのは、簡単に次々と挙げることができる、いわば挙げ連ねることができるからではないか?ということだった。浮かぶこと自体は何も悪いことではなく、むしろ、自分の深層心理を含めた頭の中を探るのに、元となる解析用のデータのはずだから、その母数が多いということはむしろ歓迎すべきことだろう。次々と浮かぶという手軽さの一方で、解析の大変さは数に比例する場合もあるだろうから、ちゃんと私が何度もここで口にしている「しんどさ」を担保するとも考えられ、文字として書く前の整理段階としては必要なように思える。だから、それが文字として直接的に可視化されるということだと、必要な作業を飛ばしたように見えるのかもしれない。また、自分への問い掛け用の言葉を、他人にも見える場所に公開している、そんな風に映るのかもしれない。でも、そうなると、この一連の私の文章だって、「したい」という言い回しこそ殆ど使っていないとしても同じではないか?
 他者に対して、自分への問い掛け用の言葉を公開することの意味は何だろうか? 冒頭の一文を書き始めた頃には意識していなかった問いが浮かんだ。すらすら書いているわけではなかったので、正当な労働の対価を得た気にもなってくる。簡単な問いと感じることも今後あるのだろうか? あるような気もするが、今は結構難しく感じる。それでも、ひねり出すことに意味があるとしたら、今浮かんだ理由は次のようなものだ。分かり合うことがない他者でさえ自分だということを証明したいため。「したい」と「したいため」だと大きく異なることに目が向かう。「したいため」をもっと使ってみようと思う。それもまた、可視化する前の問い掛け用の言葉なのだろうが。