Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

全身

 またいつもの書き出しかと思いながら始める。頭の中に留まっているからだ。こう書くと、頭の中に身体が格納されているようでもあり、横道に逸れそうになる。もっとも、案外横道ではなく中道かもしれない。何か外部情報を起点にするのではなく、心の中を探り、最も書きたいと浮かんだ、外部情報との隔絶度の高いものを元に書き始める。こういうことを毎日毎日言っているわけだが、この一文に対して今日疑問が浮かんだ。――仮に、外部情報の度合いが一切ないものが頭の中に浮かんでいるとして、それを選ぶというのは、どこか非現実的ではないか、求めているのは書く必然だといえるが、そういう無垢ともいえるものはむしろ、必然とは対照的に適当でランダムな素材ではないか?――そういう疑問だった。
 言ってみれば、思考を含む身体全体で考えて文章を生成しているのではないか?と思ったのだろう。書くよりも生成するの方が、全身を使っている感じが出ると思ったので生成とした。せいせいなら全然していないが。こういう確信めいた疑問があるから、冒頭の「頭の中に身体が格納」というのもあながち間違いに思えない。それならむしろ、「身体の中に頭が格納」というべきかもしれないと思いかけ、それは言うまでもないことだと失笑した。でも昔から、頭の中にあるのであろう考えるという機能は身体機能なのだから、「考える:運動する」といった切り分けは不自然だなとは思っていた。
 また別の疑問も浮かんでいた。「人間が意識だけの存在としても存在可能となる」も昔から想像してはやめてを繰り返していたことだが、今回はその先に付け加えた疑問となった。――人間がいつか死とはまた別の状態という意味で、身体から完全に切り離された意識だけの存在としても存在可能になることがあるとしたら、どういうことを考えの起点にするのだろう?長文をどういう風にまとめるのだろう?――と。既存のイメージの借り物の度合いが高いが引用めいたことをすると、例えば手塚治虫の作品にあるように、個々の意識は集合体となって存在していて、一つでもあり、多数でもある、そんな状態として描かれている場合がある。それの正誤はもちろん分からないが、意識だけとなった場合、どうやって自他を区分するのだろう?とは思う。区分の必要はないという考え方もあるだろうが、それでは勿体ないという気になる。せっかく分岐した個という可能性が、何かもっと大きなものに収斂されるのだとしても、個という違いの部分は残っていてほしいと、残らないとは限らないのに、反論するような口調で書いてしまいもする。その大きなものも、半導体のように、二つの異なる性質を持っていて、集合体の状態と個の状態が共存していると考えればいいのかもしれない。その共存は、電流のACのように、入れ替わり続けているという点滅の状態で成り立っているのかもしれない。
 自分の全身の範囲はどこからどこまでとなるのか?という疑問も浮かぶ。そして、そんなの、個の意識が思う個としての範囲と、集合体としての意識が思う集合体としての範囲の両方に決まっているだろうという言葉遊びのような自答が続く。では、全身でないものが全身の一部に変わるのなら、その範囲は不可逆的に拡大する一方なのか?