Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

乗り物と写真

 人生はあっという間の儚いものだと分かりながらも、決して冷淡な感情ではなく、むしろ好意を抱いている対象について「意外とこの人も長生きしているな」と思うことがある。さっきこの感情を思い出して書き始めた矢先、この対象はメディアを通した人物、もっと言えば、直接会っていないという意味でメディアの向こうの人物であることに気付いた。こういう感情を抱く際、すぐに浮かぶ絵図がある。それは、特急列車の車両内で飛び上がって、車両の最後尾の壁に激突する自分と、現実通り、何ということはなくそのまま真下に着地する自分の二通りのイメージだ。慣性の法則と書けば五文字で終わる話だが、その前にこれらのイメージが浮かぶ。そして、地球の自転を感じることが出来ないのと同様に、そのメディア越しの人物と自分が一緒に走っているから、実際の経年の速度を何とも思わず、ごく緩やかに歳を取っていることにすら気付きにくいのだろうと思った。たまに相手を眺める程度では、多少の髪の長さの変化程度は分かっても大きな変化は殆ど感じられないのに、その「たまに」を数倍に延長した期間を開けて眺めると、その変化に驚くといったことが起こるのは想像に難くない。それでも、どんなにメディア越しであろうと同乗しているのは変わらないということなのか、サーバとのやりとりのように、こちらの眺めるという行為がアップロードだとしたら、向こうからの眺められるというダウンロードが発生しているような気分になる。実際は、向こうには私は認知すらされていないはずだが、どこか地続きの意識があるということなのか、繋がっているという感触が残る。なるほど、同時代に存在しているという最低限だが相当大きいともいえる条件下では、二者間にサーバ/クライアントの関係を見出すことができるのかと新鮮な気持ちにもなる。向こうが眺めていようがいまいが、こちらには眺められている状態が発生しているとしたら、これは見逃せないことだ。
 その一方で、同時に、冒頭に儚い=すぐに死んでしまうことを分かっていると書いた通り、どんなに意外と長生きだと思って眺めていても、その相手も自分同様に、140歳どころか130歳まで生きることは絶対にないだろうと確信を持って断言できるのも事実だ。根拠はないが、世間が私の代わりにそう思ってくれるという期待値を根拠に持ち出したくなるくらい、世間の常識というか集団心理というか同調圧力の助けを借りた断言だといえるだろう。
 ともあれ、ここまでは確認作業のような文章という意味で、間抜けでもある。車両点検をするか、車内の誰かと言葉を交わすか、車内で考えごとをするかして、そこから生まれる考えを書いた方がましに思えてくる。そして今日の出来事を車両を連結するように繋げたくなる。それは、古いシャチハタのアルバムに並んだ古い写真の数々だった。具体的には幼稚園の行事と共に園児達を捉えたものだった。まず外観のアルバムだが、これもまたメディアということになるだろう。このメディアときたら、よくここまで均一に普及したものだと思えるくらい、私の生家にもあったのと同じ感触と匂いを放っていた。色褪せ方まで同類の気がした。そしてそのコンテンツたる写真はといえば、初めて見るものばかりだが、何度も見たかのようで、でも、初めて見た瞬間から切なくつらく悲しくなるものばかりだった。楽しそうな笑顔で溢れかえっているページが続々と現れたのだが、だからこそということか。写真というものは怖いのだととうに分かっていたと思っていたことを、再学習するような、刺激の強い、こちらのエネルギーを奪う時間が流れた。周囲の方は談笑しながら、その中の一人が「もうこの園児たちはおばあちゃんですね」と呟くと、その笑いは、嘲笑から更に距離を隔てた綺麗な類としか思えない、悲しみが中に搭乗した列車のような笑いとして部屋を走り抜けた。賑やかで、恐ろしく静かな時間の中にいたと気付いた。列車から降りられないのだとしても、この列車は、色々な部屋に停車することはできるのだ。列車だと思っていたらバスかもしれないし、もしかしたらもっと全然違う乗り物かもしれない。いずれにしても、この乗り物自体が酔いを誘発することはあるのか? 頭の中で咄嗟に、今日目の当たりにした写真の中の園児たちを急速に加齢させ、ぐでんぐでんに酔ったサラリーマンやおじさんやOLや主婦に変えて想像してみる。くだをまかせてみる。想像するのは自由なはずだ。それでも、泥酔していようが皆、この共同の乗り物によって酔っている人は誰一人いないと思った。