Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

我関数

 海によって分断されていない陸続きの土地という単位で眺めると、日本の場合、本州が圧倒的に広く、北海道や九州、四国が続くことになる。以前から考えかけては面倒になってそのままにいていたことを、また自分の今日の行動から思い出した。また今日も、そういう言い訳をしながらの始まりとなった。午後、船で本州に着き、街並みを眺めていたら思い出した。それは、街全体に感じる大きさと、その街がある陸続きの土地の大きさは比例しているのではないか?というものだ。この場合の大きさは、目視で同面積の範囲を囲むことはほぼ不可能だが、街Aで視界の中に選択した面積aと街Bで視界の中に選択した面積bが同面積とする。今日の場合だと、四国のとある街Aの面積aと、本州は広島のとある街Bの面積bが比較対象となったが、またしてもbの方を大きく感じることになった。そろそろ例外も欲しくなってきて、そういう例外を探す楽しみも今後の移動には生じると考えることにした。この仮説に倣えば、本州にある100,000㎡の土地は、四国にある100,000㎡の土地より絶対広く感じるということになり、とっくに破綻している仮説だとも思うが、同面積という条件は絶対に変えないものとして、「海によって分断されていない陸続きの土地」という条件をもっと細分化すると、なんか法則を見出すことになるのではないか?と独善的に、されど無視できない問いを続けることにした。
 何故こうした結果になるのだろう? 当然浮かぶ問いがそれだ。「街は一朝一夕に作られるわけではなく長い時間の中での変遷にあって、建築物や自然の形状の変化の影響を受けて、視覚を中心とした五感に入ってくる情報の一部が遮断されることもあるだろう。それでも、絶対的な面積の違いを、人間は識別して認知しているのではないか?」という問いが浮かんできた。また、問いは問いばかりを生むようだが、こうも考えてみた。「人々がそういう認知をすることにより、その土地に対する余裕度も変化しているのではないか? つまり、本州にある100,000㎡の土地だと、本州の方が四国より大きいということで、四国にある100,000㎡の土地内に50のビルと20の道路があるとしたら、本州の場合には40のビルだがそれぞれ四国の数倍はある大きさのもの、15の道路だがそれぞれ四国の3倍あるもの、といった都市計画段階(の以前の段階)で違いが生じているのではないか? その一つ一つのサイズの違いにも影響を受けているのではないか? 」と。
 複雑な関数とか避けるようにこれまでの人生を過ごしてきたこともあって、上述のような、単純な例えを挙げるのにも時間を要したが、仮にそういう相関関係があるとしたら、もっと複雑な関係があり、複雑な関数で説明されるのだとも想像する。そういう数式の存在など全く想定しないでただ気ままに歩き回った結果ではあるが、秋田市盛岡市浜松市京都市広島市呉市といった本州の街は、松山市高松市高知市徳島市ならびに、札幌市、小樽市、福岡市よりも大きいように感じた。そんな強引な、そんな一概に、という自分の中からの声ももう聞こえ始めている。それでも、一例外があって無効とするよりも、諸条件を見つける方が面倒だが価値があるのではないか? おまけに楽しくもあるのではないか? と思いもする。我関せずよりは我関数というダジャレも浮かんだが、大真面目に数式が無理なら、言葉で諸条件の一つを見付けないとと思う。まだ1月ということできりもいいし、この諸条件の発見を移動中の数学と言い換え、改めて始めることにした。