Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

線引き

 考えるということは、予断の連続の中で予断から逃れながら、新たに発見した考えを予断として利用していく、と言い換えられると思った。前者は、何かについて考えたり、書いたりしている際に、それっぽい帰結としたのを自覚する時に走る居心地の悪さ、食べ過ぎた時に似ていなくもない気分の悪さを思い起こさせ、先程この文章を書き始めて思い当たったばかりの後者は、発見するということをどう定義するかが問題だし、また、予断にも賞味期限のようなものがあるのかと別の問いを投げ掛けてくる。いずれにしても、ちゃんと考えるということは相対的ではなくかなり絶対的に正しい行為だと思う一方で、また、大抵の行為には、続けているという言葉を紐付けることができるが、考えるも例外ではなく、考え続けるとした途端、それっぽいごまかしを意図しているようで、考えるも考え続けるも、やるべきこととして凛然とそこに現れているのに、それが為されているという実感はなかなか湧いてこない。ここで気付くのが、考えるの中に、考え続けるを自分が含めていたということだ。考え続けるのが、考えるにあたっては当然というか前提のように考えている、いや、無意識的に思っている、ことに気づいた。一時期、あらゆる日本語の動詞に、さっきの続けるを紐付けて「~続ける」が成立することを確認する度、例外が現れないことに嫌気がさしていたことを思い出した。これは、AはBであるに対し、BはAであるといった真逆が成り立つ事実を見出す時に覚えていたのと似た嫌気だ。嫌気というのは覚え続けたいものではないというのも、かなり絶対的に正しい事実だと思う。

 どうすれば、考え続けるのか。その一つには、今、考え続ける手前の考えるで終えようとしている状態を自覚した時に、その考えるは、実はずっと前からの考えるから生まれているはずだ、ではそれは何だ?と想像してみることがあるのではないか。ずっと前から新鮮な予断達によって引かれてきた線があるのではないか。

 こう考えてみると、予断だと切り捨てている考えにも、新鮮な時期はあったはずだ。そう思うと、都合良い線として結び付く点のパーツとしての予断も、それぞれが持つ線と共に眺めるなら、鮮度が変わってもくる。また、線同士をくっつけるとなると、それはむしろやりたいことだったりする。文脈同士をくっつけるのが、考えるということの醍醐味だろうから。