Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ポメラ

 ポメラというのは、随分バッテリーが保つものだと改めて思う。おそらく今年になって一、二回しか充電していないのではないか。こういう状態を眺めると、また、自分の周りには書くことができるスペースで溢れている(のにそれに見合った量の記述が為されていない)ということが自然と浮かんでくる。ようやく、ポメラの画面右下を見るとバッテリーのゲージが半分を下回っている、そんな2月ももうすぐ半ばの夜だ。思いっきり時系列の、身の回りの出来事を書こうとしている。この場所で記述を再開した頃とは明らかに変わってしまっている。まずそれを認める。認めることは開き直ることではない。これには注意しないとと思う。よく、昔犯した罪を告白したが最後、一種のカタルシスを得たかのように楽になって夢中で次々と同様の告白を続ける、そういう人間の動きを何かの作品で見たか読んだかしたことがあったが、そういう、人が自らを気持ちよく滑り落とす傾斜を持った誘惑なら、さっきの書くことができるスペースくらいあるはずだ。そういうちょっと一滑りのつもりで降りて、いつの間にやら滑り続け、というのがないのなら、世の中、今とは全然違っているはずだ。良い場合だけでなく、もっと明らかに悪い場合も含め。
 ここから逆説的に考えてみると、世の中、瞬間的に激変していくことがあるようでも、ポメラのバッテリーではないが、実は緩やかにしか変化しないのだとも思えてくる。すると、すかさず、「核ミサイルが爆発してもか?」と問う自分が現れる。それに対し、「うーん、確かに激変だ、激変どころか……」と思いかけるがそれでも、「それは停止であって、変化の値がゼロになっているのであって、緩やかな状態が再び再開するはずだ、人類がまた胎動することがあれば」という考えが浮かぶ。これは人間本位の考え方であって、人間も二酸化炭素や酸素や鉄やその他と同じ一物質、複数の多種多様な元素の混合物だと考えると、核爆発は変化の停止ではないのではないか?という問いもまた現れるが、それでも尚、緩やかな変化だという感覚が残り続ける。大変な激変が大気中どころか地球全体規模で起こっているはずだとしても。
 その理由は、リニア、地続きというか、なるべくしてなったという意味で、原因と結果の連続(結果はまた別の事象の原因となる)がこの世界を構成しているとしたら、たとえ核爆発といえど、その範疇を出ていないと思うからだ。声がでかいだけで、何も実質的には変化を伴った発言をしていない、そんな批判がビジネスシーンでも、例えばプレゼンや営業といった領域で為されることがあるが、それに似ていなくもない。短い期間や狭い範囲を眺めれば、急速にみえる原因-結果の連鎖であっても、そのゲージの長さを変えれば、緩やかな変化に還元されるように思うのだ。でも、これだけでは、「だから何?」な文章である。文章は、記述内容は、緩やかな変化でなければいけない理由はないはずだ。ここで、切り上げたくなっているのだろう、言葉遊びという、この場合結局は誘惑が浮かんだが、ポメラに対して妙な縁も感じるので挙げる。それは、ポメラガメラにすることがもっとあっていい、とでも言い換えられるものだ。ガメラは、核爆発で眠りから覚めたらしいが、起きているつもりが本当はずっと眠っているのかもしれない。そういうことを誤魔化さずに追求して、されど追求自体が楽になってきたら、また違う動きも見出して実行して、そんなこんなでバッテリーを節約している場合ではない機器や状況だってある、ということにしておく。