Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 何度も何度もぶつかる疑問の壁に「苦労することは価値がある」や「努力は尊い」がある。後者は前者に比べると、まだ腑に落ちる実感があるのだが、前者については、これまでいろいろ考えて納得を覚えては再び壁に激突するを繰り返しており、その頻度も少なくない。
 この問いに対しての、ごく短い回答だなとひとり合点する言葉が、今日頭の中に浮かんできたので、こうして書き始めている。答えの方が自然に浮かんできたのだが、きっかけというか原因ならその前にあった。日中、どうにも上手くコミュニケーションというものが図りにくい、訝しげな対応をいつも取ってくる同僚に、何とかこれまでのように大人げないことはないと説明できる態度で接して、ひとしきりの会話を終えてその場を去ったのだが、その後、頭の中にはいくつかの批判めいた言葉が沸き上がってきていた。いわゆる悪口の類であれば、まだましだと思うくらい、中途半端にも理路整然とした批判めいた言葉というのは、嫌気を覚えるものだ。ひとしきり頭の中でその批判めいた言葉、一文を反芻し終えて、そう気付くと、続いて自然に「生きている言葉でも、汚い言葉は次々と簡単に浮かぶが、綺麗な言葉はそうはいかない。だから苦労することは価値がある」と浮かんでいた。あっと思った。これはとっくに誰かが言っていることだろうが、それでも、自分だけの言葉として獲得した瞬間が今日あったことは間違いない。あっとだけではなく、今も嬉しいと思う。
 ただ、新たに気になることがある。現時点では、「もう『苦労することに何故価値があるのか?』という壁には、しばらくは激突しまい」と思っているが、「激突しなくなる」と言い切れないのには、どこか壁に激突したい自分の願望が隠れているのではないか?と思うのがそれだ。そして、「結果的に肯定するのが自分に望む態度だとしても、一度も壁に激突しないで、肯定側に立つのは居心地が悪いな」という思いも登場する。一回の壁への激突には、自分自身が認識している懐疑以外も含む複数の懐疑と共に、激突を通しての、その後の肯定への入り口がセットになっているのではないか?と考えた。20年や30年は前に、喫煙歴があってから禁煙を続けている人と、最初から禁煙を続けている人、つまり、一度も喫煙したことがない人を比較して、いったいどちらの禁煙の姿勢が支持できるだろう?と自問したことがあった。どう答えたかは思い出せないが、一見前者のように思えて、今は両方支持したいと思う。複数の隠れた懐疑と肯定が両者の周囲に漂っているからだ。袖すり合うも間接喫煙。また言葉遊びが浮かんだ。