Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

疑問

 ――死を何故身近に感じることができないのか、あるいは、身近に感じることができた瞬間をすぐに忘れてしまうのか、続かないのか?――新幹線の中で浮かんだこんな疑問は、――他人任せにして被害者寄りの立場で生きているからではないか?――答えのような疑問に置き換わり、さらに――何に一番リアリティを感じるべきか?あるいは、感じないといけないのか?――となった。これとて今日の出来事だが、もっと目に見える出来事の記述をするよりも今はこちらをと思い、回答を考えてみる。
 その前に、この「~べき」に目が向かう。随分、こういう物言いを避けていたなと気付く。視野が広がったから、こういう限定を避けたくなったのなら幸いなことだが、そんな視野の持ち主かとなると自信がない。でも、その次の「~といけない」は対照的に、自分の物言いとして許容できることが多いと思った。これは多用しているというわけではなく、むしろそんな厳しい限定を口にすることは少ないはずだが、いざ口にした時には言うべき時に言っていたという実感があるからだ。実感、つまり、これもリアリティの一つということだ。この場合、リアリティの対象は自己肯定だったとでも説明できるだろうか。
 沢山のリアリティがあると思う。ここから、帰宅後いつもの部屋の中で続きを書いているが、全く観光然とせずただ移動をして考え事をしただけのようだが充実した旅だった、そこから戻ってきた、また次の旅へ向かおう、それまで普段の生活も大切にしよう、楽しい気もしてきた、といったリアリティもさっそく登場している。その上で、前述の通り「何に一番」と限定したものを求めもしていることに触れたくなる。沢山のリアリティがあるままではだめなのか?いや、そうではないとは思うのは間違いない。せっかく個々のリアリティがあるのに、散逸してしまっていて、結局言葉にするのも嫌になるような悲しい出来事が発生しているのではないか?だから、そういう散逸に至らない、せっかくのリアリティを台無しにしないための、リアリティを束ねるリアリティを求めているのではないか?と後付で理由を見出した気になった。もっとも、これとて疑問形になっている。考えたつもりを繰り返しているのかもしれないが、考え続ける中で疑問ばかりが浮かんでくる。走馬灯よりはましということかもしれない。自他共に限定することが現実に多いから、疑問という形で開放しようとしているのか? はたまた、考え抜かないための仕掛けとして、実体は終止形としての疑問を登場させ考えを終えたように見せかけているのか? 実際、この場に登場したものに限っても、疑問を疑問にすり替えているとも思えてくる。
 進まなくなってきたので、逃げるわけではないがと、どういうリアリティが欲しいのか?といった疑問というより自問を思い浮かべてみた。すると、わりあいはっきりとした自答が出てきた。それは、他人が楽しんでいるというリアリティだった。自分の何らかの行為によって他人が楽しんでいるリアリティ?とも思ったが、ちょっとそこまでは限定しないでおきたいと思った。以前なら、そんな限定をしていたように思うが、そうだとしたら、この変化は前進と言い換えても良い類かもしれない。その前に、見過ごしたくないのは、何故自分の行為に限定したくないと思うか?だ。それは、成果や達成といったものに置き換わるからかもしれない。この文章を書く中で、自分をごまかしきれなかったがまだ書いていないことがある。それは、疑問符を添えていようがいまいが、疑問形にすらなっていなかろうが、ここに書いている一文の大半は疑問形ではないか?ということだ。疑問形だけが集まった長文を想像してみる。想像が進まない。逃げるように、それぞれに固有の疑問を思い浮かべている乗客だけで埋め尽くされた車両を思い浮かべる。容易に想像が浮かぶ。その車両に進行方向を見出すとしたら、Uターンなのか?