Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

落とし物

 落とし物をすることがよくある。見る人によっては、頻度はそう高くないのかもしれないが、当の本人にしてみれば頻度は高いと感じる。くよくよ後悔するわりに、すぐに立ち直って忘却していることの証左といったところだろう。まったくもって自愛というやつはと思うが、そんな物言いでは自愛が可哀想だ。自分が悪い。
 実際に年に何回くらい?と振り返ってみると、全くない年も当然あるべきだが、何とかそういう年もあるだろう、でも自信はない、といった認識となった。何だか多いのは多いな、もしかしたら落とし物の定義を他の人よりも幅広くしているのかもしれない、と思ったので、昨年1月から今日までを対象期間に何を落としたかを挙げてみる。
 まず3月、札幌のライブハウスで未使用のワッペンを落としている。付けていないで持ち歩いていたのが滑稽でもあるが、ライブ終了後に気付き、電話をするも、「そのようなものは拾得されておりません」の返答を得たのみだった。自席の椅子の下に上着とペットボトルとスマホを置いた際にこぼれ落ちたに違いないと確信したのだが、結局、それ以上はどうしようもできず、諦めたのだった。
 次が7月、会社の日帰り旅行で入った、とある老舗の工場か小綺麗な食事処のいずれか、あるいは移動中の貸し切りバス内でメッセンジャーバッグに付けていたピンバッジを落としている。偶然だが、ワッペンやピンバッジと似た物を落とし続けていることになる。付けたら、半永久的に外れないとでも思っているのかどうかはともかく、そんなことを思う以前に付けたが最後、気にしなくなっているということだろう。物を粗末にしているということだ。ただ、このピンバッジの時はワッペンの時よりもはるかに多くの、「誰かがピンでケガをしたらどうしよう?」と自分が加害者になることを恐れる気持ちが沸き起こった。大昔にも似たようなことがあったのを思い出した。バイトでトラックの助手席に乗って移動中、作業用の頑丈なゴム手袋の片方を落としていることに気付き、「誰か自転車に乗っている人が、ゴムで滑って転倒して車と接触するようなことがあったらどうしよう?」と気になって仕方がなくなったのだが、バイト終了後、必死で後戻りし探すも見付からなかった。この時も、自分が加害者になりたくないあまりになんと自己満足で独善的なおまじないのような行動を取るものだろう?とは思っていた。今もそう思う。
 そして次が、今日のことだ。今日は、おそらく自転車で移動中にではなく、その目的地であるショッピングモール内で、飛沫防止眼鏡の左側のプラスチックレンズを落としている。先日、オフィス内で足下に落とした際ヒビが入り、レンズが外れたのをはめ込んで使用していたのだった。それにしても、入店時に装着してから退店直前までの二十分あまりの間に、外れて落としたことに気付かないとは、と自分の鈍感さに驚いた。と同時に、「プラスチックだからガラスのようには割れないにしても、誰か、丸くなっているのだから滑って転んでケガをしないか?」とまたしても前述の自己満足な不安が沸き起こっていた。でも今回はもしかしたらエコバッグの中に紛れ込んでいるのでは?と、周囲が暗いし外では広げて点検できないのだからと頭の中で自分に言い訳して帰宅した。結局、エコバッグの中身は買った物だけだった。
 ところで、このように実際に外部に見える形で起こった出来事を中心に書いているが、この場所の別の記事で書いてきた通り、これは自分で決めたルールに反していることになる。でも、落とし物をした際自分の中に発生するこの独善的な行動については、どこかで考えをまとめないといけないと何度も思ってはそのままにしていたので、飛沫防止眼鏡の左側のプラスチックレンズを拾わなかったことを誤魔化すためかもしれないが、取り上げることにした。眼鏡とは違って、こういう独善的な姿勢というものならいつも自分に装着され続けているのではないか? そのことを気にしては誤魔化している自分もまた、いつもここにいるのではないか? だったら、外部情報ではないことから書き始めるという自分のルールを守っているともいえるのではないか? そのように都合良くも考えてみた。
 間違いないのは、ケガ等身体的な痛みといった物理的な結果をもたらして他人に迷惑を掛けるのは最悪だが、心理的にだって同様ということだろう。一方で、生き続けていることは、そういう物理的心理的双方の迷惑を他人に掛け続けていることでもあると、そう言い切りたくはないにせよ、自分で否定できないことも事実だ。この場所で書くことを続けていて若干約ひと月となったが、落としたことより拾ったことの方が多い実感がある。何か忘れていたことを思い出すという形で拾って、それについて書き残し公開することで、自分の内面が良くなったり、その文章が直接誰かを気持ち良く落ち着かせたりという、拾ったことで始まる好循環のような作用ばかりでなく、落としたことで自分や他人に役に立つことも文章の場合ならあるのではないか?と思った。文章を落とすって何? ということになるだろうが、今のところは、書かないで想像してもらう方が望ましい行間のようなもの、と、その逆に、ある文脈に関して本来あるいは従来なら書かれていた文章が書かれないで済まされた、という二つを想像した。大金を落とし前述の好循環が起こるのならとも思ったが、自分が生きているうちにはそのような自分も社会も登場しなさそうだと、いったん筆を置くことにする。