Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ハワイ

 文章中の動詞を、なるべく能動態で書くようになって約5年経った。決して長い期間ではない。また、受動態が悪いわけでもない。受動態で書くべきものは当然あるし、実際それは誤りたくないと思って気を付けている。何故このようなことを意識して実践するようにしたかというと、自分を含め、能動態を受動態で書く方が容易だし、そのわりにはもっともらしく映る気がして、また、そういう受動態で溢れている気がしたからだ。
 そうして最後まで残った受動態の中身はというと、解決が求められる問題という性格を帯びている気がする。そして、問題という存在は、それ自体が能動態的であると思う。この前の文章にある「解決が求められる問題」というのがまさにそうだ。これは、「解決を求める問題」とすることだってできなくはないだろう?!と突っ込むことはできるが、それでは、顕在化している、時には表層的でしかない問題のみをテーマにその解決を探し始める、という流れになりかねない気がする。「解決が求められる問題」だと対照的に、問題をまだ探し出したり、あるいは問題の全輪郭を捉えようとしたりといった活動が付帯しているように思える。
 このようなことを書きながら、自信がなくなってもいる。必ずしもそうは言い切れないではないか?!と突っ込む自分が現れる。もっと大事なことを忘れていないか?と。それに対し、「どちらの表現が、自分たちがいる世界に近いか?を基準に判断すべきでは?」と浮かんだ。ここから逆説的に想像して、「自分たちがいる世界に立脚せずに放出された表現が溢れかえっている」という当たり前のことが浮かんだ。でも?と思う。それもまた自分たちがいる世界の特徴の一つだとしたら、そのうち、「自分たちがいる世界の表現」そのものに変化するのではないか?と思った。「プレートの移動でハワイが何万年か何千万年か後には日本に近付いてくる」という予想に似ていなくもない。自宅の机の前にいるのに、まだ行ったことがないハワイにいると実感できる日なら、そう遠くない気がしてきた。