Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

バッグ

 コロナが始まってから、衣服だけでなく、トートバッグも洗濯する回数が増えた。1日使ったものは洗濯するので、自然とトートバッグの数も増えた。気に入っているものもあれば、あまり気に入っていないものもある。いずれも、その丈夫さには、これが綿100%ということか?!と驚きもする。
 丈夫な一方で、皺になりやすいものとそうでないものがある。薄手のものは皺になりやすいのが分かった。アイロンを掛けると見た目が格好良くなる。もっとも、これはこちらの主観だが。こんな風に気遣いをしているようで、幾つかにはバッジやピンズを付けることもあったので、よく見れば細かい穴が確認できる。収納、移動という機能だけではなく自己主張というわけだ。
 本来の機能である収納、移動を見れば、便利なことこの上ない。ぞんざいなニュアンスは加えたくないが、さっと放り込むだけでいいのは大変便利だ。中には、ジッパーで閉じるものもあるが、大半は蓋をしないでいいことも勝手がいい。そして、前述のように、がんがん洗える点も。病気知らずの働き者みたいだ。
 時々、このトートバッグの中に、ショッピングバッグを入れていることがあるのに思い当たった。この場所で時々書いているクリアファイルとの類似点が何となく浮かんでのことだった。クリアファイルの中にクリアファイルを入れているのに似ていると。でも、クリアファイルの場合、私にとっては判断保留の積み重ねの象徴の結果としての傾向が強いが、トートバッグの場合は判断保留ではなく、単純に収納力という機能の補強の結果として、そういう重なりがある。ようやく、バッグインバッグという言葉も思い出した。バッグとは、増えることはあってもなかなか減らないものだと思った。
 話はここで終わらず、バッグインバッグ、バッグ、バッグ…・・・と、無数のバッグが入っているバッグを持ち歩く行商人なのか何なのか、ともかく、そういう人が浮かんできた。「いてもいいよな」と思った。「ばら撒き型のお土産」という言葉がある。「バッグをばら撒く人がいても面白いな」と思った。そこに入れるものを各自で考えて、面白いものにはまた別のバッグを授ける、といった展開が浮かぶ。野暮な考えかもしれない。そう思うと、こうした展開は時に、バッグの表面にバッジやピンズを付ける行為に似ている気がする。なるほど、こうした行為もまた、判断保留な場合が多いのではないか? 
 今、読み返していて、バッグを主人公にしたバッグマンというのも浮かんでいた。パックマンの方がマシみたいだが、結構真面目に突き詰めたくなる話と共に。「何を入れるべきか?」と日々悩みながら、意識を持ったバッグが放浪する構図だ。ありきたりかもしれないが、扱えるテーマは無限でもある。一度に収納できる容量には限界があっても、本質的な容量の限界を意味してはいない。こう書いてすぐ、本質というもっともらしい言葉を使ってしまったと思った。この文章中では特にそうだ。単語や言葉も、何に収納されるかで悪者に扱われたりと気の毒でもある。
 こんなことを書く前に、数時間前、浮かんでいた言葉があった。昔東京にいたころによく通っていた飲み屋のママさんが、旅帰りだったか出発前だったかの私のバッグを見て、「そんな大袈裟なバッグでなくて、風呂敷で十分だよ」と言ったのだ。風呂敷も、恐ろしいくらい目にも口にもしない、されない言葉になった気がする。どこに収納されたというのか? 勝手に収納するなということか? 風呂敷が勝手に大きく広がり続ける風呂敷マンというのが浮かんだので、ここで蓋を閉めることにする。