Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ほんの少し先の未来

 近所の図書館に行った。もう60年以上前から、同じ外観で同じ場所にあるらしい。外壁を何度か塗り替えたりはあっただろうが、基本的には何十年も変わらない景観が続いていることになる。こういうのを目の当たりにするたび、眩暈というか不思議な気持ちになる。
 20歳を越えてからだと思うが、時々景観のごく狭い範囲を眺めて、「これは●●年代の光景だ」と思い込む、そんな一人遊びをすることがあった。時代は、1970年代であることが多かった。そんな時、たまたま軽トラックが通り掛かり、「思い込もうとしていた1970年代により近付けてくれて、ありがとう!」と勝手な感謝を覚えることもあった。独善的だが、私にとっては軽トラックが1970年代的なイメージを持っていたというわけだ。また、徐々にその狭い範囲を拡げていき、それでも変わらず●●年代に錯覚できるか?を試してみることもあった。何が含まれると、その年代に思い込めなくなるのだろうか?と。もっとも、これについては、うまく行った記憶がないから、一度思い込みたい●●年代に錯覚できた実感を得ると、範囲を拡げようが、その錯覚は瓦解しにくいということなのか?人間の寿命程度では、昔と今の違いを案外実感できないのかもしれない。
 何故こんな遊びを繰り返してきたか?を考えて、平面や点の中に、ある実空間をそのまま保存できると思いたいのだろうと考えた。カセットテープやムービーのフィルムがあるではないか?と突っ込みそうになるが、実空間と挙げた通り、時間だけではない、その時の情報丸ごとを保存したいので、それらでは不十分なのだと思う。
 図書館の後は、二回目となる岡本太郎展に行ってきた。ここで、面白い体験ができ、一人合点することになった。小一時間、正確には50分程度だったが、前回の続きから鑑賞していった。前回も小一時間というかちょうど一時間程度だったのだが、細かいキャプションもくまなく読みながら回っていたら、案の定タイムアップとなっていた。面白い体験だが、今回もまた、退場する頃になると、前回も感じた時間の増幅が起こった。小一時間が、少なくとも2時間はゆうにその場にいたと実感できたのだ。満員の会場とは無関係に、空間が爆発しているともいえるなと思った。そして、灯台下暗しのようなことが浮かんだ。絵やオブジェで占められた景観は、どういう時間を放ってくるのか?と今頃思ったのだ。そもそもこんな問いの前に、答えに相当する実感は既に得ていて、無国籍感と共に、古くもあり新しくもある、ほんの少し先の未来といった感覚を覚えることが多かった。母数たる美術館に通った回数自体を思えば、決して多くはない経験ではあるが。総括的にこういう経験を意識すると、これまで鑑賞という行為に対して批判めいたいことを口にすることが多かったが、十把一からげにしていたこの視線こそ批判すべきだと思った。
 また、「時間を忘れるほどだった」という多用される表現も思い出すことになった。今日の場合は時間を忘れるどころか、後で時間の増幅を覚えるくらい、時間に触れた実感があったわけだから、この表現の逆を行っていたともいえる。実際、夢中にはなったとはいえ、よく分からないままの景観を通り過ぎることの連続で、決して楽しいというものでもなかった。かといって、苦しいというものでもなかった。一言間違いなさそうなことを添えるとしたら、何回も通りたいとは思う空間ではあった。ほんの少し先の実際の未来もそうあって欲しいと思う。同時に、そういう未来にしたいと思う。