Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

途中の語尾

 ランチの時間に、今日はまず語尾について書くべきだと思った。一回限りの感覚だとしても、冒頭が語尾についての言及から始まることに、何だか信用を覚えてもいる。何も言及していないので始めてみる。さっそく、それは一文目にも現れていた。「思った」がそれだ。これは、「考えた」でも「感じた」でも「~いう気分だった」でも別にいいわけだ。一文を積み重ねて書き進めるということは、同様の語尾の箇所が増えるということでもある。私の場合、時々というか少なからずどの語尾にしようか?と迷った挙句、いずれかに決定するのだが、そんな時は自分を誤魔化している気になる。感覚的には語尾というより尾語といったところで、正しい尾語の使用法に自信を持てないまま、また使ってしまったとなる。
 だから何だ?ということでもある。語尾のことばかり気にして話の内容を進めないくらいなら、何でもいいではないか、何なら「思う」「考える」「感じる」「いう気分だ」といった一連の語尾群を全部取り払ったらどうだ?と叱責してくる自分もいる。数㎞に亘って真っすぐに伸びた道路を、左右への数cmのズレも生じさせないで走りきる車がないように、そんな語尾の揺れは許容値なのだと言ってくる。
 ただ、これらの語尾には、また車ではないが、明らかに搭載している感情の質量が両者間で異なっていると感じる場合がある。もう10年以上前だが、「考えるは思うに置き換えられるが、思うは考えるに置き換わらないことがある」というような一文が浮かんだ。当時、精神的な支えの一人だった年配の方に評価をいただいた一文でもあり、嬉しかったことも思い出した。でも今こうして眺めてみると、もっともなことしか言っていないようで物足りない。もっと違うことに気付きたい。そんなことを思ったら、以下のような考えと突っ込む自分が現れた。
 
1)一文のみならず文章全体を、何らかの今この場にはない文章の語尾だと捉えてみる。
⇒そんなことが出来ればいいのだが、仮にそれが出来たとしても、自分に都合良く仕立て上げているだけの場合も多そうだ。この場合、語尾に割り当てる「何らかの今この場にはない文章」への語尾もまた考えることを条件にすれば、多少は都合の良さを抑制できるかもしれない。
2)語尾という語尾を一旦全部取り去ってみる。取り去って違和感が残るものについてだけ、その理由を考える。
⇒殆ど取り去っても違和感なく許容できそうだということに驚く。何だか随分無駄なことをしていたということか? いや、そうは思わない。違和感が残るものはまだあるはずだからだ。
3)新しい語尾を作る。
⇒これは何も「にゃ」や「カー」といったものばかりではない。上記1,2も含め、冒頭から私は、これを実現したいと言っている気がする。

 思えば、しりとりの「ん」もそうだった。これももう10年以上前になるが、「何で『ん』だと終わると決まったんだろう?感情的には『ん』の方が別の語句よりも多くの感情を含んでいる場合もあるはずなのに。そんな言葉が続けさせる次の語句というものもあるはずだろう?」といったことを考えていた。尾語といったが、終わりとされているものに始まりというより、途中であることを見出したいのかもしれない。途中がどこかの中学校みたいに見えてきて悪い気はしない。