Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

外部情報

 連日、この冒頭では外部情報に頼らない姿勢を宣言しながら、それは困難だと言い続けている。今日も今日とて、心の奥底にあるのか表面にあるのか分からないが、外部情報に直接的に影響を受けていない、自分が本当に今言いたいことを探そうとするも、次から次へと浮かんでくる外部情報に端を発したとしか思えない考えに、入り口を塞がれたような気分になった。一体、外部情報に影響を受けていない考えとは?とスタート地点に戻っている。
 こういう場合、思い浮かべるのは、ギターや楽器の独習だ。自分が触れてきたという点でギターが一番分かりやすいものとして浮かぶ。どういうことかと言うと、他者による作品や演奏や譜面といった外部情報を参照することなく、自分の思い付きのままにギターを練習するとする。それを何年も続けているうちに生じる変化はどういったものか?という想像だ。自分が押さえやすい手順が手癖となったとしたら、同じ期間で比較した際、それは外部情報を参照してきた場合の演奏とどの程度乖離があるのだろう?と思った。
 独習によって斬新なスタイルになる場合もあるだろうし、全然技巧的には稚拙とされるものに留まることもあるだろう。どちらにせよ、新鮮な発見には思えない。ごく当たり前のことしか言っていない。一方で、外部情報を参照してきた場合と同類にはならないのではないか?いや、同類の場合も稀にあるのではないか?と逡巡したのは、気になっている。この背景には、自分をいかに外部化していくかというプロセスと、そのプロセスが回りだした時の人間の輝きのようなものを想像したことがある。自分のそれまでの演奏を元に、この部分をこう変えてみようと考え実行し、またその演奏を元にという一連の流れが、ここでいう外部化のことだ。また、逆に、自分を外部化できなくても、これは不可避の外部情報というものになるかもしれないが、目を閉じても見える光の動きや耳を閉じても聞こえてくる音をはじめ、自分を取り囲んでいて入り込んでくる自然の営みという情報が、参照元となって、ギターの演奏を変えていく気もする。
 ギター一つをとっても、こういうことが当てはまるとしたら、自分一人で籠る時間も、他者と関わる時間同様に貴重だと、これまた当たり前の一文が思い浮かぶ。でも、さらにそこに当たり前の一文を続けるなら、物理的に他者と関わる時間というのは、その実構造的には自分一人で籠る時間でもあるのだと思う。自分一人で籠る時間はどうか?逆は成り立つのか?その場合の他者は自分だけなのか? ビートルズのRevolverの逆回転が思い浮かんだ。完全な外部情報だ。目覚めるために、今日は休むことにする。