Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

長か短か

 1日も短ければ1年も短いと感じていることが気になった。加えて、ひと月も。ちょっと前なら、1日は長いが1年は短いと言っていた。月単位に関して言えば、昨年、とある月を振り返って、このひと月は長く感じたなと満足げに思ったこともあった。その満足は、従来ならとてもひと月の期間では実現しなかった行動を重ねることができたという実感から来たものだ。具体的には、一人旅を重ねたことと、並行して複数の仕事、プロジェクトと呼んでいる類のものを計画よりも密にその内容を詳細に作り込みながら進めたことが該当している。そういう意味では、決してあれもこれもと性質の異なる行動を重ねたというわけではない。行動の種類という点では、それほど多いとは言えないだろう。
 年末年始という異なる年を挟んでいるが、今日までのひと月を振り返って、長かったか短かったか?再度自問してみた。湧き上がってくる実感はやはり冒頭の通り、短いままだ。このひと月も、昨年の長く感じることができたひと月同様かそれ以上に、一人旅を重ねたし、仕事も進めた。それなのに、逆に短いと感じるのは何故か?
 この問いを考えるヒントになるかもしれないと浮かんできた問いがあった。根拠はない。それは、「このひと月の間、それぞれの一日はどうだったか?長かったか?短かかったか?」というものだ。そんな、30日=30回に分割して認識などできるわけがないのだが、だからと言って、連日体温を記録するように、日記を書くように、一日の終わりに「長か短か」と問うた結果を記録することが最適な方法とも思えない。何故なら、それはそれで貴重なデータになるので全然否定はできないが、ここで求めたいのは、ひと月後のある地点からまとめて振り返った場合にもたらされる実感と思うからだ。ここで、その日その日の固有の記録、その日を思い出すことに繋がる記録、そうなるとやはり日記ということかと、日記的な記録の有効性が浮かぶ。でも、日記と言ってもそれぞれが長文だと、読み返すことが目的となってくる気がするので、短文をさっと間断なく30日分まとめて読み返し、浮かび上がってくる長短をそれぞれの一日に回答していくことの方が良さそうだ。水面を小走りで駆け抜けていく石のイメージだ。休憩を挟んだりすると、もう個々の、特定の出来事を思い起こすのに思考や感情が偏る気がする。それは結局、特定の日に感じる長短を、ひと月に対して感じる長短にすり替えることになると思う。
 長かろうが短かろうが、どっちでもいいじゃないか。そういう考えもあるだろう。でも、春夏秋冬の区別よりももっと曖昧な感覚を観察したい気持ちがある。さっき使った長短という文字に影響を受け、さっそく長調短調という文字も浮かんでいる。音楽を聴く側としても、演奏する側としても、等しく長短どちらも必要だと思う。それに加えて、長短が曖昧なものも必要だと思う。それがブルースだとか、きれいなまとめ方はしないでおくが、時間に対する実感にだって、長短が曖昧な感覚を覚える場合がないわけではないだろう。一日だとかひと月だとかといった期間にこだわらなければ、「長いような短いような時間だった」というのは誰しもあるはずで、私だって例外ではない。この長短が曖昧な1日未満の時間を長くするということはできるのだろうか? そして、それは何を意味するのだろうか?