Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

依存

 再び依存について考える。このキーワードは、大体自分から離れずに周囲を漂っている。先程も、頭の中に登場したし、実際、昼間にこの依存を彷彿させる行動があった。そこから書き始めるとまた日記然とした記述になりかねないという思いで、こういう書き出しで始める。

 何かにいつも依存しているという思いを抱くことは簡単だ。こう書くとまるで依存していないようだが、そんなわけではない。依存している:依存していない、だと右辺にあることは今後も望むべくもないと思うから、左辺をもっと細分化して考えねばと思った。依存にも色々な種類があるというわけだ。
 種類をタイミング良くというか、この直前、酒類に誤変換していた。分かりやすい例だが、物理的、肉体的な依存の代表例の一つにこの酒がある。酒の種類によってさらにその依存度や依存までに要する時間の違いといった区分もできるかもしれないが、それは割愛する。とにかく、はっきりと分かるかたちで依存状態が出現するものだろう。治癒するという観点から眺めれば、決して簡単な場合ばかりではないが、依存しているか否かの判断としては実に簡単ともいえる。また、決して詳しくないので想像の域を脱しきれないが、身体に元々その受容体というか因子というか、依存を作り出すものが備わっているという点で生得的なものだろう。
 一方、こういうのもある。今日の昼過ぎ、どこか近郊に出掛けて一泊しようかと考えながら、行き先を決めかねていた。安閑としている点を責めるのはまた別の機会とするが、そのうち、年末に間に合わなかった大掃除の下準備を始めねばという気持ちが沸いてきて、手始めにメインの部屋にある本棚や衣装ケースを移動し、掃除機を掛けていた。当初はキッチンや洗面所はまた後日にするつもりで軽く考えて始めたのだったが、ごく自然に台所の一部を雑巾とクイックル泡クリーナーを使って拭き始めていた。そこで、ようやくというか、あれ、別に出掛けなくてもいいかと思っているな、と気付いて、これはまた、掃除の時にまま発生する依存、掃除に嵌まる状態だな、と思った。これが本当に依存なのかは分からないが、当人にとっては依存的であるとは間違いなく実感する。依存的だとして、この要因は何だろうか?すぐに答えらしきものが想像できないので、考えてみる。ここまでの文章もまた下準備だったということか、ようやく、本題になってきたようだ。
 どちらかというと、始めるまでは面倒だった点で、程度の違いこそあれ「行き先を決める&外出する」も「大掃除の下準備をする」も同じではある。前者も、いったん決めて、簡単な荷造りをして駅へと向かってしまえば、後は風に流される凧程度には後戻りはしなかったはずだ。今回、後者を選んだだけの話だ。どうしてもそれをやりたいという強力な欲求がいずれも基準値以下だったということかと思った。いい悪いの前に、貧相な印象も覚える。がつがつ何でも欲しがる態度を貧相と形容するのはいたって普通だと思ったが、どっちでも良いといったこの欲の低さも貧相だとはこれまで多分思ったことがなかった。

 なし崩し的という言葉もまた浮かんだ。総じて他力本願というか、状況に依存して、やらされている感を得ようとしているのか。やらされたからこうなった、と悪い状況になったとしても責任転嫁したいのではないか?これは性急過ぎる想像だろうか? もし、そのような責任転嫁の欲求が働いているのだとしても、今日の場合には自分に自分がやらされたわけだから、自己責任なわけで、自分で責任を取っているといえる。それでも、一連の心の動きには、新年の晴れた早朝に漂うような気持ちの良い、清々しい雰囲気とは対照的な陰気さを覚えてしまう。
 無理に何か、分かりやすいこと、つまり、他人にも文字や言葉で説明できることを、自分の生活の時間割に入れて実行しようとしているのではないか?そういう強迫観念や、あるいは思考停止があるのではないか?と思った。どちらでもない、どちらでもよい、というのと似て異なるかもしれないが、曖昧な状態はそれだけで否定できるものではない。実体験として、旅から戻った時の気持ちを思い出した。それは、特に観光地にも行かず、ただ考え事をしたりぼーっとしたりを繰り返しながら移動していた状態の旅を、帰宅後、じんわりと振り返りながら今回も良かった、と思っていることだ。いつも大体そういう旅となっているが、この旅の時間には曖昧な状態を多く含んでいると思った。これだけでは、まだ前述の、どっちでも良いという低い欲求の状態と同じようにも思える。また、観光地に行こうか、でも面倒だからいいや、という低い欲求が関与したからこそ実現した曖昧な状態、といえるのではないか?とも思う。次回の旅で検証してみる、というのは容易い。机上でももっと旅をせねばと思う。その場合の旅は、曖昧な状態を目指して進むことが多いが、その原動力は結構な熱量を必要としてきた。そして、この場と似ているが、もっともそれはこの場が机上の旅の記録の場となりつつあるだろうという点で良いことだが、長い曖昧な状態の旅を頭の中で展開できたという実感が強いほど、実際のその他の行動に身が入るというか、要するに好影響を与えてくれたと思う。なるほど、欲求の低さの一因には、全然まだ机上の旅が足りていないことがあるというわけか。机上の旅に依存しつづけにくいのは何故だろう?