Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

場所

 高速のパーキングエリアやプレハブ造りの仮設の建物を訪れたり通り過ぎたりが、年に数回はある。その時、その場を立ち去るのが名残惜しい気持ちになることが多い。ちょうどこれから明日に掛けて、パーキングエリアに立ち寄ることになる。禁則としている外部情報に頼って書き始めること、3日目だ。この常駐や定住とは異なる点で一時的な2つの場所に関して、考えずに通り過ぎたくない気持ちと、その逆に、考え始めたら楽に通り過ぎることはなくむしろ行き止まりにぶつかりそうな予感もあり、しっかりしんどい経験となりそうだと言い訳がましくも始めてみる。

 連日定期訪問のようにこれらの場所に接していたら、また全然違う気持ちに気付くのかもしれない。また、もう少し頻度は高いが、駅や年に数回帰省する実家や地元だって同類の存在かもしれない。ラジオや無線の周波数のように、頻度や外観や周囲の景観、そこにいる人の特徴、過去の体験といった諸要素を組み合わせたチューニングを自分の中で行なっているのかもしれない。

 これら2つの場所を一回で訪れるようなことは、決して多くない。想像するに、職業としてのトラックの運転手が浮かぶが、これから先そんな手に職な仕事を担うことはおよそ考えにくいので、別の可能性を探すことになる。いや、別に一回で訪れなくてもいいのだが。それより、この2つの間にも、頻度の差ははっきりあることを無視すべきではないだろう。私の場合、パーキングエリアの方が、仮設の建物より数倍は多い。加えて、そもそも場所の種別が異なっていることもある。単純に、一緒くたにはできないだろう。

 その上で、2つの場所に共通して浮かんでいた願望に思い当たる。それは、「何日間か泊まって生活してみたい」というものだ。冒頭に「名残惜しい」と挙げているのだから、同語反復的でもあるが、この願望は根強く残っている。他の場所同様に色々な人がいるが、皆「今自分はこの場所に一時的にいる」という意識が他の場所以上に高く、そのことが場の雰囲気や場が放つパワーのようなものに影響を与えているのではないか? そんな問いが浮かんできた。そして、一時的な場所が持っている特性を、もっとそれらよりは定期的だったり恒常的であったりする場所に持ち込めたらと思った。逆も然りかもしれないが。場所同士が相互交流するイメージということか? その交流の媒介は人だと当然のことを思ったが、人が全面に出るのが交流という考えは、極めて正論過ぎてどこか足早に通り過ぎたくなる。気付けば、そういう指摘を受けるのもすっかり減っているものだが、今後「場所をわきまえて」と嗜めらる時には、人からというより、場所からそう言われたいと思った。