Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

人の振り、人のふり

 今日もまた実際に自分の身に起こった外部情報も外部情報から始めてしまう。頭の中を占拠していたわりには、事の収束後、さっと後腐れなく引き上げているのに気付いたこともあって、取り上げたい。それは、昨日コンビニに忘れた免許証を今夜受け取ることができたことだ。昨日コンビニのコピー機を利用した際、コピーのために使った自分の免許証をその場に残したまま帰宅しているのに、ついさっき気付き、おそらくないのでは?と思いながらも猛ダッシュで駆け付けると、店員の方が昨日から保管してくれていたのだった。これまでも免許証は、酔い潰れて財布ごと盗まれるといったみっともない理由で何度も無くしており、十分注意すべきだったが、本当に身に付かないものだと情けなくなった。悪銭を身に付けないのは当然として、とっくに身に付けるべきは、同じ轍は踏まないということだった。
 とある口座から別の口座に振り込み依頼をするのに、免許証のコピーが必要とのことで、昨夜コンビニに立ち寄り、一作業としてコピーをしようとしたら、眼前に前の人のものらしきコピー用の原本が残っていた。入り口で再びアルコール消毒をしてから、その書類を軽くつまみ、店員の一人に「前の人のだと思いますが、残っていましたよ」と託し、自分のコピーをそそくさと終え、そのままコピー機のカバーを上げて取り出すのを忘れたのだった。「人の振り見て我が振り直せ」というのは、こういう場合にも見事に当てはまっている言葉だと思う。いつの間にか、「人の振り」を悪い行為に限定して捉えていたことに気付いた。今回のような悪意のない、本人には超重大な場合だってあるが他人には危害を与えるわけではない「置き忘れ」という行為だって人の振りの一つだった。こうして改めてこの文字を見ていると、人の振りというのは、存外当てはまる範囲が広いことに気付く。何だって大抵は人の振りの延長上にあるように映り始める。えっ?そんなこというなら、昨夜すれ違った野良猫はどうなんだ?と自問が浮かぶが、その野良猫だって人の生活圏という人の集団の都合に多分に影響(良い場合も悪い場合もあるだろう)を受けて生きているはずだから、やっぱり人の振りの延長上にあるといえる。
 さて、どうしても言葉遊びをしてしまうのか、ここに来て「人のふり」という変換を頭の中で行っていた。「免許証はきっとないだろうな(=免許証はどうせないだろうな)」という私の中に浮かんだ想像は、他人や物事、つまり人の振りを悪いものとして捉えているともいえる。この私の想像は、悪魔的という意味で人のふりをしているのか? それとも、当然浮かびもするよ、世知辛い世の中だったらといった意味で人間くさい類なのか? 同じように、もし実際に免許証が誰かによる持ち去りによって失われていたとしたら、その持ち去るという行為をした人は「人のふり」をした一面を持っているということか? これは、他の例と比べても当たり前過ぎることを言っている度合いが高そうだが、持ち去るのも、その人を取り巻く人の振りにも一因があるのであって、その人を即人のふりをした悪魔だ、そういう一面を持っているのだ、とは言えないと思った。そして、間違いないのは、置き忘れたり、振り落としたりしようとしてもなかなかできない、なくそうとしてなくならないのが、この人のふりということか?と思った。でも、もういい。それよりも、いつまでも当たり前の考えをコピーし続けるようなこういう文章を、どのように変化していこうか?こそ考えることにしたい。