Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

発声

 何年も前から知っているが、普段は思い出さないからやり過ごせているのか? あるいは、思い出さないように無意識的に自身が制御しているのか? 理由はともかく、そういう既知の類の中で、今回ある史実がメールの形で届き、やられてしまった。戦中の動物園における殺処分のことだ。今日のメールでは、象のことが中心に取り上げられていた。その文章は、迷いのない、澄み切った視線を帯びた構成と文体で、ライターを名乗る方には皆一読してもらいたいような素晴らしいものだった。それだからか、これまで以上に鈍重な気持ちになった。結局、帰宅前にメールで筆者に対しお礼と共に、「人間自体をやめたい、でもそうもいかない、『戦争が悪い』という常套句は『人間が悪い』をすり替えたものだと今更気付いた」といったことを返信してしまった。年々というか加齢と比例するかのように、動物の純粋さにやられている。そして、鈍重な感じを覚えたり、人間を嫌になったりしながら、それを理由に酒なのか?と自問しながら、断酒を解いて酒を購入し帰宅した。そして、じゃなくて、ここもまた、結局ということでもあるだろう。
 「繰り返しやすいことを減らす」という言葉が浮かぶ。その一方で、「『繰り返しにくかったことを繰り返しやすいことに変える』というのもある」と自分に突っ込む。もちろん、全部に当てはまるものではない。こうして見ると、この場所の他の文章では殆ど使ってこなかった括弧の中の括弧『 』を複数回使用している。こういう場合、しっかり考えていないのではないか、考えることを回避しながら文章(=他人への発言。言い出した以上、体裁の上でも締めくくりを求めるということだろう)だけは進めたいから、手っ取り早く既存の言葉を利用しているのではないか?と思いもする。自分がたとえ人間だろうと何だろうと、意識を持って文章を書くことができる安全な環境を与えられている以上、やめるべきはこういうことだと思う。
 こうした自分の言葉を頭の中で唱えながら、この文章を書いていたら、父親から届いた昔の手紙の文体が思い浮かんだ。具体的な内容云々よりも、文体はいずれも方言を使用したものではなく、それらは「最近、〇〇に通い始めたよ」といった極めてNHK的というか、標準語な口語体だった。実際に会ったら、これは「最近な、〇〇にの、通い始めたんよ」となる。これは短い文だから変化している部分は少なく映るが、実際の長文で眺めると、手紙の紙面に現れた標準語変換の度合い、その徹底さ加減は見事なものだった。それでも、わざとらしい、嘘くさい、冷めている、そういった印象を覚えるかといえば全くそんなこととは無縁で、生々しい、思いっきり父親の姿でしかない文章だった。象の鳴き声を泣き声にしないためには、人間は全然まだ泣いていないのではないか? こう一般化する前に、これは自問として、人間を自分に置き換えておく。泣くべきとはいえ、泣いて終わるのでは今日の酒と同じことだ。泣くなら、こういう自分の父親のような文章を同時に発さねばならないと思う。父親は、動物、象のように発声していたのだと分かった。