Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

溢れると溢れている

 ふた昔以上は前から想像していたことに、何かのタイミングで、その時点でのこの地球上に生まれた全生物が登場する、というものがある。そしていつも、「物質は元素レベルで循環しており、大気圏内でのその総和は、隕石等外部からの流入分を除けば基本的には変わらない」と自分に言い聞かせながら、「でも全生物となるとちょっともう溢れて、大気圏外まではみ出してしまうのではないか?」と想像することになる。
 ここで、「自分も昨日見た猫や犬も、一時的に元素が寄り集まった状態だとして、ではその意識は寄り集まったものなのか?」となるのは、ありきたりなくらい自動的に浮かぶ問いだ。この問いの背景にあるものもいつもの通りで、意識に関しては、元素レベルに還元されず、かといって消滅もせず、それぞれ固有のものとして残り続けて欲しいという自分の願望を再確認する。で、考えを進めてみる。その意識だが、これこそ膨大どころか宇宙的な数字で増加し続けているわけだから、大気圏外はおろか銀河系外にまで溢れてもおかしくないのではないか?とこれまで考えていても良さそうな問いが初めて浮かんできた。意識がスペースを埋めることはないと、ずっと勝手に思い込んでいたわけだ。
 もちろん、それは正しいのかもしれない。そもそも、持ち主の命が停止した時、意識は消滅するのかもしれない。ここでは、その是非を問うようなことはしたくない。死と意識について、色々言われていたり、色々な仮説があること自体は、詳しくはないが何となくにせよ知っている。でも、それらを持ち出さずに書きたくなった。
 そこには、これほどの意識の動きがあるのに、物質を構成する元素が影響を受けないわけはないだろう?!という、これまた願望がある。今夜立ち寄った大型スーパーで、時々試していることをやってみた。それは、会計終了間際にレジの人の目を見るということだ。統計を取ったことはもちろんないが、レジ前でレジの人の目を見るお客さんは少ない気がしていた。それだけに異色なのか、今回もレジの人とは目が合うことになった。じろじろ見たわけではない。今回もなんとか不自然ではない範疇で目を向け、目を離すことができた気がする。意識の交差点と呼ぶべきかどうかは分からなくても、現にこういう意識の動きがお互いにある。大気圏内で、誰にも迷惑を掛けていない状態の場合でも、既にそこらじゅうに溢れている。共存かどうかは分からないが、共存だと思いたい。