Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

個人的なセブンティーン

 極力、この場所やほかの場所でも、レビューめいた文章は書きたくないと決めて昨年12月からリスタートしているが、それは私がレビューの方法や形式の種類を新たに生み出せていないことを示しているだろう。レビューは依存だ、楽な書き方だと言ったところで、生み出していないことは変わらない。それでも、結果的にはまだ、書かないでおこうと思う。 
 その舌の根が乾かぬうちにもう、の話にならなければいいが、書かないでおくのが直感による判断だとして、同じく直感で「この文章は、自分が書くべき、書くことができる類のものだ。自分らしさが表れる文章だ」と読みながら思ったことがあるのを、先日と今日思い出していた。「セブンティーン」という小説がそれだ。
 30年程前に一読した時には気にしていなかったと思うが、相当久しぶりに、それが収録されている文庫を開けてみて、見開きのページが自分の原稿に似ていることに気付いた。内容ではなく、改行が少ない、要はびっしりと文字で埋め尽くされた紙面を見て嬉しくなった。書かれている題材というよりも、文体や叙述の様に関して、恐れ多いことだろうが、その質感が似ていると思ったのだ。こういう体験もまた、個人的な体験というものなのだろう。でも、こういうケースはこれまで多くはなかった。個人が強くなっているということの一例なのか?あるいはその逆なのか?と疑問が浮かんでくる。容れ物は、意図せず誰かと似ている外観なのに、入っているものはきわめて個人的なもの、という構図が浮かぶ。そういう文章を書きたい、と書き始めて、この構図は人間そのものではないか?と振り出しに戻った気になる。
 「セブンティーン」については、付け加えることが実はある。当時の私の文章は、あるいはもしかしたら現在の文章もまた、その題材は、「セブンティーン」の題材と似ているものが少なくないということだ。この題材の種類が、せめて加齢に比例して増えていかないと虚しい気がした。あ、冒頭のレビューでこれを実現すればよいのか?と、また振り出しに戻った。