Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

時間の経過に反して生々しい度合いが高い記憶

 時間の経過に反して生々しい度合いが高い記憶って何だろう?と今日思い浮かんでいた。その時、地下鉄のホームにいたので、場所の影響も少なからずあるのかもしれない。地下鉄のホームというのは私にとって、時間というか時代が流れていっていない感じを覚える空間なのだ。昭和や平成といった特定の時代というよりも地下鉄という時代というか。レトロでも未来的でもなく、リアルタイムというのともちょっと違う、強いて挙げるなら、ちょっとだけ古いが同時代、といった形容になるだろうか。
 では、冒頭の問いに対して何が浮かんできたか? まず、誰かと一緒にいた時の記憶ではなく一人でいた時の記憶の方が当てはまるのでは?と浮かんできたが、やっぱり違うと否定することになった。この文章は冒頭から帰宅後に書いているが、地下鉄にいた時はまだ一人の時の古い記憶を生々しいと思っていた。例えば、1980年代初めのとある霧が漂う朝、自宅の物置小屋が見える光景、といったものだった。それが、帰宅後には、大勢の人と一緒にいた、おそらく最初で最後の田植えへの参加(といっても幼児だから、田んぼに裸足で入って、ヒルに吸われて、おそらくは泣いてといった大人たちに迷惑を掛けただけなのだが)の記憶に置き換わっていた。これは1970年代後半のことだ。
 何が正解かは分からない。というか、こうして回想する時の精神状態や、先程の地下鉄のような外部環境の影響によっても変動するのだろう。ともあれ、冒頭の問いやそれに続く問いは、それ自体が興味深く、正しいか正しくないかとは無関係に思い浮かんで良かったと思えるものだ。この問いを元に、地下鉄内でさっそく次のような妄想も思い浮かべていた。それは、小説の形式についてだった。―主人公というか語り手は小説を書いているが、その小説のルールとして、「ある日の記憶を鮮明に思い浮かべることができれば、小説の題材を変更したり付け加えたりできる」というものを思い付いた。この語り手の時代には、記憶を鮮明に思い浮かべるというのは、直接的でなくとも、生態系や地球環境といった大きな存在に対して、良い影響を及ぼすことが証明され始めていた。それだけに、過去を意識的に思い出すことが一般化しつつあった。どの程度鮮明に思い出しているか?もまた脳波や心拍数といった身体の変化を外的に計測することで容易に可能となっていた。―ざっとこんな塩梅だ。自分の中から、アイデアに留まらず実際に書いてみろという声もし始める。