Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

既定路線

 昨夜から今朝にかけて、バスで10時間以上を過ごした。私が乗ったバスは途中、高速道路の事故の影響を避けるため進路を変更したが、そのことで見覚えのある光景と30数年ぶりに再会することになった。父親の運転する車で、生まれ育った街から大阪へと移動した時に見た光景を、今回は真逆の進路から通過したのだ。前回同様、両脇に広がる樹木は決して爽やかな印象を覚えるものではなかった。どちらかというと、翳りや不安を覚えるものだった。樹木には何の責任もない。樹木には、勝手に自身の心象風景、あるいは、こじ付けに巻き込んでいることを、むしろ謝るべきところだ。
 ともかく、前回との違いにも目を向けることになった。前回のルートは概して、「地方都市→田舎道(この樹木のある場所。以下同)→本州の某所→大阪」という流れだとすると、今回のそれは「本州の某所→田舎道→地方都市」ということになると思って、すぐに「田舎道だと勝手に形容していたが、この場所の方が自分の生まれ育った場所より、大阪という都市には近かったのだな」という当たり前の事実を認識することになった。そして、ここには、田舎だと別に馬鹿にする気持ちは毛頭なかったし、今はそれ以上にないものの、不安なくせにどこか浮かれていた30数年前の私の思考停止状態が表れていると思った。カーブを描いて右に上昇する折れ線グラフのように地方都市を脱出する、この田舎道はその通過点でしかない、といった書くのも恥ずかしい単純な構図が、堂々と頭の中で機能していた気がした。そうではないと、否定したいところだが。もっとも、決して褒められるものではないが、その当時より場所に対するヒエラルキー的な区分は随分なくなったからだろう、「そんなに都市を賛美するというのなら、この田舎道の方がよっぽど自分の街より近いじゃないか!」と30数年前の自分に突っ込んだというわけだ。
 それでも、いくら二者間がフラットな関係だとしても、「都市:非都市」あるいは「都市:田舎」といった二項対立が自分の中に根強く残っていることは間違いないだろう。なるほど、この状況からどのような場所に移動するのか?を考える、そういう思考の上の移動の機会が、帰省に伴い発生している。実際の行動に影響を受けている。帰省とは関係なく、考えたいことだが、機会損にならないうちに考えようと思う。それはまた別の場所でとする。これから、友人と会わないといけない。