トラ・ブル
生業が傍目にも忙しくなってきたようだ。忙しくなってくると、仕事のパートナーや顧客といった関係者間で目的や問題が共有できるからか、大小問わずトラブルが減ることを改めて実感している。そして、「戦時下もまたこういう状態を生んでいたのか」と想像が浮かぶ。とここまでは日中考えたことで、今、これを書いていて、「戦時中? 世界は繋がったとかインターネットとか5Gとか言いながら、状態の共有は全然進んでいないな」と思った。この類の共有は、能動的にこちらから取りに行くものであって、受け身で得られるものではない、という考え方もあるだろうが。
再び、昼間に浮かんだことに戻る。続けて、「トラブルが減るというメリットがあるから、人は忙しくしたがる面もあるのか」と浮かび、「忙しくなくてもトラブルが減るようでないといけないし、その逆に、なくてはいけないトラブルもあるはずだ。トラブルの質を変える必要があるということか? そうなると、その質はトラブルの発生数にも関わるのだろうか?」と思った。
「トラブルということは、固定的な加害者、被害者がいるわけではないだろう?」と、今思った。認めざることだとしても、相互に加害者であり被害者であるから、トラブルなんだと。この地点から始めれば、トラブルの数はぐっと減りそうだと思い、否、正確には、「トラブルとして発生はしたが、それらはすぐに消滅しそうだ」と言うべきだなと思った。でも現実はなかなかそうは上手くいかない。トラ・ブルという表記にでもすれば、加害者と被害者の両方の役割を担っていることを、普段意識する機会も増えるだろうか?と思った。