Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

マスク

 旅先ではほぼ見かけなかったものに、マスク着用者がある。実感としては、1,000人に1人といっても大袈裟ではない。同じく旅行者かもしれないが、そういう人を見掛けると、儀式のようにこちらもマスクを取り出して着用し、しばらく歩いて外すを繰り返した。それでも、着用者は5日間で10人未満だったと思う。
 旅が、準備の時間や作業量の多さを喚起するように、コロナやマスクは、同調意識や自意識を意識する回数の多さを喚起した。「一体全体、そこまでして、何を着脱しているのか?」という問いも浮かぶ。浅薄な着想かもしれないが、この問いと答えの価値は、低いとは限らない。どうせマスクを外すなら、外したと思っているその状態にもまだ外すものが残っていると考えたくなった。こうなると、ほぼ同時に、では着用の場合はどうか?と浮かんだが、着用すべきものはあまりイメージが湧いてこない。クリアファイルにクリアファイルを入れ続けて何層にもなったイメージならあり、もういいやとなる。
 「何を着脱しているのか?」だが、答えとして「保留」という言葉が浮かんだ。小休止とも言い換えることができる。着けても外しても、それで担保したいのは「小休止」ということだ。これもしばしば口にしている「対岸」に近い気がする。責任は全面的に負いたくないのだ。「まだ外すもの」には、この「保留」があるなと思うことになった。
 では、「着けるものは?」だが、なかなか思い浮かばなかった中、「そうか!」と閃いたのが、本夕も当たり前のように訪れた人混み、具体的にはチェーンの喫茶店だった。そうした他人の存在を間近に体感することを、無意識の内に求めており、それは身体が着用を求めている環境なのか?と思ったのだ。そういう点では、身体は本人の意識とは別に、社会性を身に付けているともいえると思った。でも、これは当たり前というか、別に新鮮な仮説ではない。マスクを外して新鮮な空気を吸い込んでいるなら、新鮮なものを吐き出しても良さそうなものだ。発想や考えは、もっと社会性をなくしたものでも全然問題ない。着けたり外したり忙しいものだ。