Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 先日訪れた風の国の安ホテルでは、朝食に卵が並んでいた。文字が書かれていて、環状になっていて、今思えば房に付いたバナナのようでもあった。寝起きとはいえ、注意不足というもので、その横に沸いた湯のポットがあるのに、そのまま自席に持ち帰り、割りかけて、ようやく生卵だと気付いた。少し中が覗いていたが、注意してポットにお玉杓子を使って格納し、何とかゆで卵として食べることができた。
 今日、昨夜遅くまで飲み過ぎたこともあり、夕方まで起きないでいた。寝起きの頭に、この日の卵のことが浮かんで、今また気になって描き始めた。この卵が気になったのは、昨日からの私が、ニワトリと真逆の生活だからというわけではないだろう。元々、その当日も、殻の上の手書きの文字といい、卵の質感といい、また、この手間が掛かるともいえる仕組みともいい、皆が皆合わさってのことだろうが、グッと来たというか、切ない気持ちになっていた。儚い、貴重な時間だと思った。
 茹でられようが茹でられまいが、食として用意された卵にしてみれば、いずれ割られるわけで、儚いどころの話ではない。そういう卵を食べたわけだが、一緒に食べた野菜やパンやチーズや牛乳だって同じというものだ。総合的に搾取をしながら、身体が目覚めたとか言いながら、昼前にはもうそんな切なさなどは忘れて、別の喜怒哀楽に身を任せている。
 ここに来てようやく気付く。ようやく気付くことの連続が、毎日というものか。自分もまた、卵と同じ立場だと。生物だからということではなく、存在ということだからだと思った。他の存在があって初めて成り立つのだ云々は大昔から言われていることだが、自分の中から出てくる、これもまた卵としての言葉かそうじゃないかは大きな違いというものだろう。コケコッコーの時間もまた複数存在している。

同時

 昨夜、文章を進める話を書きたいと思った。今再び思い出した。文章を、何をもって進んだと、当人が実感するのか? あるいは、何をもって進んだと実感できないのか? それを突き詰めて描写するなら、自分との会話というより、自分との対話に近いやり取りが継続してできるはずと思い期待もした。この場合、会話の方が対話よりも表面的で、実行しやすいものとして区別している。

 2日徹夜して書き続けるのも相当難しいが、たとえそうしたとしてもいずれ、書くは書かない状態へと着地する。そして、再び離陸した際には、実は別の便に乗っているのでは?という不安に苛まされたり、実際別の便に乗っていたりする。想定の有無を問わず、変化にも、許容できるものとそうでないものがある。

 「同じ便と違う便の両方に乗ることができる、それが書くという行為では?」と浮かんだ。それを言うなら、着陸と離陸もまたそうかもしれない、でもそんな状態は想像がしづらいと思った。昔、文字の上にさらに文字が書かれた文章を、どのようにして同時に読むことができるようにしようと考え、そのままにしていたのを思い出した。この中にも、同じ便と違う便、着陸と離陸が同時にあるということか?

タイヤ

 3年程乗っている自転車の後ろタイヤがパンクしていた。ふた月程前の点検時、タイヤが摩耗しておりパンクの可能性が高いこと、次回パンク時はタイヤ交換が必要なことを伺っていたが、その通りになった。夕方修理に持ち込むと、「45分程度時間が掛かるが何とか今日渡すことはできる」となった。
 あっけなく交換できるものだと思いながら、すり減ったタイヤのことを思い浮かべた。普段は殆ど意識しない期間が何年もあったのに、いざ交換となると、途端に寂しさや切なさを覚えたりするものだ。もっとも、それらは最初から摩耗済みの軽い感情な気もする。溝がなくなったツルツルのレーシングタイヤみたいなタイヤとの溝なら深く残ったまま、次に自転車を取りに伺った時には、もうタイヤに触れることはないのだろうと思った。
 微かな変化を思う時間を日々設ければいいのか? そういう場合もあるだろう。でも、恐ろしいことも思い浮かんだ。普段、タイヤのことを意識しなかったからこそ、寂しく切ない感情が湧いてくるのではないか?と。
 45分になる直前、自転車店を再訪した。見事に新品なタイヤが実装されていた。「前のタイヤは?」と尋ねると前輪のことだと捉えられ、「まだ大丈夫ですね」と答えが返ってきた。交換となったタイヤのことだと告げると、ダストボックスを開け、摩耗したタイヤが現れた。触りながら、どんな状態になっていたのか尋ね説明を受けながら確認していた。リサイクルの有無を尋ねると、「廃棄ですね」と答えが返ってきた。触りながら、「お疲れさまでした」とタイヤに告げた。「なんで敬語?」と突っ込むべき、第三者が傍にいることを意識した他人行儀な言い方だ。店員の方は、業務終了を控えてか、今日も働いたという充実した表情に少しばかりの笑顔を浮かべながら、「ありがとうございました」と私に告げた。その声を右頬で受けながら、タイヤから手を放し新しいタイヤが装着された自転車を押して帰宅へと向かった。

自然

 帰国してから、気付けば殆ど無意識のうちにまたマスクを着け始めて10日以上が過ぎた。変だと思った。その一方で、帰国前から変わらずに残った癖もある。周囲を自然な感じで警戒する癖だ。無意識のうちにといっても差し障りがないくらいだ。初の渡航前とは明らかに異なる癖だが、前回よりもより自然に根付いた感がある。
 こういう個人的なことを超えて、もっと大きなものとしては何が異なるのか? そう自問して、帰国後はスマホを触る人の多さにまず目が行ったことがある。明らかに異様に映っていた。そして、自分も半分嫌気を覚えながら、オフラインにして歩数を見ていたつもりが、Wi-Fi環境下ではすぐにメールをチェックしようとしている。全世界を遍くとは言わないまでも広範囲に回ったわけではないが、局地的にせよ、国外との断絶感から、日本のこの状態もまた海外に対しオフラインだなと思い浮かんだ。
 もう一つ、他人への極力関わらない感じも気になった。関わらないというより、正確には視線をまず向けない姿勢が自然と身に付いているように映る。風の国では、ちょっとトラムに乗るのを躊躇っていると、すぐに乗客がクレジットカードで乗れる旨、身を乗り出して教えてくれた。海外での注意事項を喚起する本やWEBサイトでは「親切な人には要注意。スリかもしれない」といったことが書かれている場合が少なくないが、これまた自然とそうは思わなかった。直感で分かっていたのだと思う。おそらく二度と会わない可能性の方が高いその名も知らぬ異国人は、目的の駅に着いたのだろう、私より先に一期一会の一期一会とでもいうべき、さらっとした態度で、私に目も合わさずに降りて行った。言葉が通じないから風通しが良くなることもあるのかと思った。
 「今、この場、この状況には何が蔓延しているのか?」という問いも浮かぶ。それは、「蔓延なのか?蔓延とは?何かがなくなることは、何かが蔓延するということを伴うのか?」という問いも生んでいく。スマホの前に眺めるべき問いが並んでいるということか? 自問への回答という機会は、旅の産物ということか?

 

バッグ

 コロナが始まってから、衣服だけでなく、トートバッグも洗濯する回数が増えた。1日使ったものは洗濯するので、自然とトートバッグの数も増えた。気に入っているものもあれば、あまり気に入っていないものもある。いずれも、その丈夫さには、これが綿100%ということか?!と驚きもする。
 丈夫な一方で、皺になりやすいものとそうでないものがある。薄手のものは皺になりやすいのが分かった。アイロンを掛けると見た目が格好良くなる。もっとも、これはこちらの主観だが。こんな風に気遣いをしているようで、幾つかにはバッジやピンズを付けることもあったので、よく見れば細かい穴が確認できる。収納、移動という機能だけではなく自己主張というわけだ。
 本来の機能である収納、移動を見れば、便利なことこの上ない。ぞんざいなニュアンスは加えたくないが、さっと放り込むだけでいいのは大変便利だ。中には、ジッパーで閉じるものもあるが、大半は蓋をしないでいいことも勝手がいい。そして、前述のように、がんがん洗える点も。病気知らずの働き者みたいだ。
 時々、このトートバッグの中に、ショッピングバッグを入れていることがあるのに思い当たった。この場所で時々書いているクリアファイルとの類似点が何となく浮かんでのことだった。クリアファイルの中にクリアファイルを入れているのに似ていると。でも、クリアファイルの場合、私にとっては判断保留の積み重ねの象徴の結果としての傾向が強いが、トートバッグの場合は判断保留ではなく、単純に収納力という機能の補強の結果として、そういう重なりがある。ようやく、バッグインバッグという言葉も思い出した。バッグとは、増えることはあってもなかなか減らないものだと思った。
 話はここで終わらず、バッグインバッグ、バッグ、バッグ…・・・と、無数のバッグが入っているバッグを持ち歩く行商人なのか何なのか、ともかく、そういう人が浮かんできた。「いてもいいよな」と思った。「ばら撒き型のお土産」という言葉がある。「バッグをばら撒く人がいても面白いな」と思った。そこに入れるものを各自で考えて、面白いものにはまた別のバッグを授ける、といった展開が浮かぶ。野暮な考えかもしれない。そう思うと、こうした展開は時に、バッグの表面にバッジやピンズを付ける行為に似ている気がする。なるほど、こうした行為もまた、判断保留な場合が多いのではないか? 
 今、読み返していて、バッグを主人公にしたバッグマンというのも浮かんでいた。パックマンの方がマシみたいだが、結構真面目に突き詰めたくなる話と共に。「何を入れるべきか?」と日々悩みながら、意識を持ったバッグが放浪する構図だ。ありきたりかもしれないが、扱えるテーマは無限でもある。一度に収納できる容量には限界があっても、本質的な容量の限界を意味してはいない。こう書いてすぐ、本質というもっともらしい言葉を使ってしまったと思った。この文章中では特にそうだ。単語や言葉も、何に収納されるかで悪者に扱われたりと気の毒でもある。
 こんなことを書く前に、数時間前、浮かんでいた言葉があった。昔東京にいたころによく通っていた飲み屋のママさんが、旅帰りだったか出発前だったかの私のバッグを見て、「そんな大袈裟なバッグでなくて、風呂敷で十分だよ」と言ったのだ。風呂敷も、恐ろしいくらい目にも口にもしない、されない言葉になった気がする。どこに収納されたというのか? 勝手に収納するなということか? 風呂敷が勝手に大きく広がり続ける風呂敷マンというのが浮かんだので、ここで蓋を閉めることにする。

ハッ

 手ぶらで移動するのは、荷物の多い時を思えば実に楽なものだが、今日はハッとすることがあった。いつものように昼食でいったん帰宅した際、「あれっ?バッグは?」と一瞬にせよ焦ったのだ。その間数秒未満というわずかな時間だったが、実際には手ぶらだからバッグは持って自宅へとは向かっていないのに、感覚というものは自動的に遅れずに付いてくるわけではないのだと、真新しくないことを新鮮に思うことになった。もう数年、昼食時の多くはこういう行動をしているのに、何故今日に限ってと思ったが、理由は分からない。自由でありながら、色々と縛られているものだと思った。
 日付が事件名なのだから、もっと耳にしても良さそうだが、オフィスでは誰も今日があの殺人事件の日だとは口にしていなかった。十数名いたら、一人くらいはと思う。私だけが、取って付けたように、意図的に、脈絡なく、眼前の先輩社員に「今日は五・一五事件の日ですね」と口にすることになった。これまた、既成概念に縛られているともいえるが、縛られているという認識からは解放へと意識的に動くことができるはず、という言い訳も用意したいと思った。
 前述のハッとする感覚だが、昔、財布の入ったバッグ毎、自分の不注意で盗まれるということが数回あったことが関係しているのは間違いない。泥酔して、人通りのない暗い夜道の脇でしゃがんでいたら、気付けば数時間が経っており、目を覚ますとカバンがなかったり、同じく泥酔して駅のホームのベンチでうたたねをしていたら、バッグがなかったりと、お粗末なことこの上ない経験を経て、身体に染み付いた感覚だ。身体の中を隙間風が通り過ぎるような、何とも言えないいたたまれない、情けない、その実不安で仕方がないあの感じ。思い出したくないが、生得的ではなく身体に生成され常設される感覚というものがあるのだなと思う。様々な感覚を手に入れることの方が自由であるように思えるが、一方で、こういう感覚を減らすというのも、自由であるように思える。デトックスや断捨離ではない、失い方を増やすということなら、少し納得を覚えもする。

そばぼうろ

 そばぼうろを久しぶりに食べた。幼少時、家庭の方針で、商品として並んでいるお菓子の大半が食べることを禁止されていたが、そばぼうろは、かっぱえびせんと並んで数少ない食べていいお菓子の一つだった。前回食べたのは、ここ5年以内いや3年以内なのは間違いない。私に限ってかどうかはともかく、こうした記憶があやふやな出来事を、メールやスマホの画像一覧で探って、自分が認識していた時期との差異を確認し、何らかの楽しい気持ちを得る、そんな行為が気付けば当たり前のように定着していると思った。
 ともかく、相当久しぶりとはいえないまでも、久しぶりに食べることになったが、何を以って定期的とするのかはさておけば、定期的に食べていれば、「食べ続けている」という言い方もできるなと思い当たった。この「~続ける」というのは、数年前、大体の動詞に付属できることを意識した際、その汎用度の高さに逆に不信感というか嫌気を覚えたものだが、今回は、それとは違って、行為の、数年や数十年単位での長期的な継続を示す、状態を表しているという意味でbe動詞的なものとして使っていた。それゆえ、嫌な気にはならず、すぐさま、そばぼうろを「作り続けた」という言葉が浮かんできた。
 続いて、「食べ続ける」に対して「作り続ける」があるとして、「では、どちらが先にあるのだろうか?」という問いが浮かんだ。「そんなの、商品としてのそばぼうろを作るがあるから、そばぼうろを食べるが成立するんじゃないか?!」という突っ込みも当然のごとく続いた。でも、「作り続ける」が残り続ける保証はどこにもないだろう。「作り続ける」には「食べ続ける」が大きく関与しているはずだと思った。そうなると、「食べ続ける」は「作り続ける」に収斂できると。
 以前もこの場所の別の記事で書いたが、このように二項対立のもの同士をどちらか一方に集めることができると、嬉しくなるのは今も変わらない。でも、すぐに「作り続ける」もまた「食べ続ける」に収斂できるではないか?!と突っ込むことになり、どちらも互いが互いに収斂できるというのは、悪くないが、自分の中において何も新しい考えではないな、と思った。
 今日は、午後から起きると、そんなことを頭の中で繰り広げながら、ずっと家で過ごしていた。遅い時間になり、ようやく外出すると、霧雨が降っていた。傘を持たずに出たので、これから雨足が強くなったら困るなと思いながら歩いていると、対向車のライトで映し出された霧雨が目に入った。身体で感じる雨よりも、何十倍も多く感じる雨粒がそこにはあった。こんなに降っているのかと思った。そして、「止んでいるようでも、雨は降り続けている」という言葉が浮かんだ。あまり、いい印象は覚えない。対置するものとして、「雨は止み続けている」を今思い浮かべた。これも決していい感じではない。いい感じにしたいので、考えることにする。今日はこれで休むので、考え続けるという言葉は使わないでおく。