Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ハッ

 手ぶらで移動するのは、荷物の多い時を思えば実に楽なものだが、今日はハッとすることがあった。いつものように昼食でいったん帰宅した際、「あれっ?バッグは?」と一瞬にせよ焦ったのだ。その間数秒未満というわずかな時間だったが、実際には手ぶらだからバッグは持って自宅へとは向かっていないのに、感覚というものは自動的に遅れずに付いてくるわけではないのだと、真新しくないことを新鮮に思うことになった。もう数年、昼食時の多くはこういう行動をしているのに、何故今日に限ってと思ったが、理由は分からない。自由でありながら、色々と縛られているものだと思った。
 日付が事件名なのだから、もっと耳にしても良さそうだが、オフィスでは誰も今日があの殺人事件の日だとは口にしていなかった。十数名いたら、一人くらいはと思う。私だけが、取って付けたように、意図的に、脈絡なく、眼前の先輩社員に「今日は五・一五事件の日ですね」と口にすることになった。これまた、既成概念に縛られているともいえるが、縛られているという認識からは解放へと意識的に動くことができるはず、という言い訳も用意したいと思った。
 前述のハッとする感覚だが、昔、財布の入ったバッグ毎、自分の不注意で盗まれるということが数回あったことが関係しているのは間違いない。泥酔して、人通りのない暗い夜道の脇でしゃがんでいたら、気付けば数時間が経っており、目を覚ますとカバンがなかったり、同じく泥酔して駅のホームのベンチでうたたねをしていたら、バッグがなかったりと、お粗末なことこの上ない経験を経て、身体に染み付いた感覚だ。身体の中を隙間風が通り過ぎるような、何とも言えないいたたまれない、情けない、その実不安で仕方がないあの感じ。思い出したくないが、生得的ではなく身体に生成され常設される感覚というものがあるのだなと思う。様々な感覚を手に入れることの方が自由であるように思えるが、一方で、こういう感覚を減らすというのも、自由であるように思える。デトックスや断捨離ではない、失い方を増やすということなら、少し納得を覚えもする。