Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

子供は風と機内の子

 機内で12時間を過ごした。なんとかなるものだ。時間が前回よりも少し短く感じられた。お尻が痛くなるのは相変わらずだが、悪くない。テレポーテーションが出来るのはまだ先でいいと思う奇妙な魅力がある。昨日の空港内での10時間あまりと似ている。さらにはその前日の、関空の簡易仮眠場での5時間とも。いずれも観光は当然としてアクティブな活動はしていない。ただ、まとめ読みをするために携行している専門紙の記事をじっくり読んだり、この場所に向けた文章を書いていたり、コンビニやフードコートを行き来していた。とはいえ、がむしゃらというわけではなく、生産性という点では、ダメ出しをされるような時間だった。 身体は身体で周囲を眺めたり触れたりしていたのだと思う。さらには、吸収だけでなく、もちろん直接的な場合とは別の意味で、吐き出すこともしていたのかもしれない。そうだとしたら、アクティブではないのにアクティブな満足感を覚えるのにも納得する。
 これらの場所は機内以外は実際的ではないとしても、エコノミー症候群が起こりやすいような場所という共通点があるように思う。拘束度の高さという点で。でも、そんな場所で逆に、解放されるような感覚を覚えていた。面白いと同時に旅に出て良かったと思う。この点は、何か得を求めるという点で、がめついのかもしれないが。
 今朝、到着を数時間先に控えた薄暗い機内で、真っ先に明るい声で騒ぎ出したのは、5歳未満と思しき子供達だった。後ろでは、時折幼児の泣き声もしたが、子供達は総じて明るかった。もっとも、泣いている幼児とて、決して暗いわけではあるまい。こんなことは後から考えていることで、その時はふと「子供は機内の子」という言葉が浮かんでいた。機内で浮かぶというのも、飛んでいるものの中でさらに飛ぶという相似形のようなところがこの言葉の語感同様悪くない。
 今乗車している高速鉄道の横でもまた父子と思しき二人がいて、子供は5歳未満に見えるが、元気に動き回っている。子供達もまた身体で分かっいるし、彼らの身体が分かっているのだろうと思った。移動は呼吸であり、思考であるということを。拘束に応じて、身体を動かせばいいということを。旅の前や途中に、身体的に動きにくい状態があり、それは歌のタイトルにあるので悔しいが「心の旅」であることを。無意識にも、彼らは身体的に思考しているのかもしれないと思ったのだ。いや、我々はだった。とはいえ彼らはいつ、身体があまり動かせない時には、頭の中を動かせばいいということに自覚的になるのだろうか?それはどういうきっかけなのだろうか?