Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

特殊な気持ち

 ここ数日、朝から荒んだ気持ちになっていることに気付いていた。これを書かないと、今後も影響がある気がしたので、書くことにする。まず、何をもって荒んでいるか?だが、漠然とした不安感などという体のいい、あるいは実体を感じない借り物の言葉では説明したくない。今回の場合、ひと言、加虐的な気持ちになっているということで大体の説明が付く。では何故そんなことに?となるが、ストレスなどというこれまた実体のない言葉の代わりに、余裕が思い浮かぶ。自分が自分に甘やかされているのだと気付く。幼少の頃の私を育てるということは、この加虐的な態度をやり過ごしたり許容したりしてくれないと無理なわけで、考えたくもないが、目を背けたくなるが、そういう祖母には謝っても謝りきれない。三つ子の魂を持った時には既にそういう態度を持っていたのだから。
 それから何十年を経ているのに、未だにそんな大昔の頃を取り上げないといけないのかと、やれ仕事をばりばりとこなしたり遊んだり恋をしたり意気投合したり決別したり喜怒哀楽の充実に満ち溢れているような時間のはずなのに、空白の数十年を生きてきたようで惨めやら情けないやらといった気持ちに陥りそうになる。そこで止まって大丈夫なほどはまだ落ちぶれていないということか、それで、この甘えの直接的なきっかけは何だ?となる。
 その前に、ニュースを批判するということは、我が人生で実はそれほど多くはなかった。はっきり少なかった、いや、殆どなかったと言えるだろう。「信じられない!あれほどの事件があなたが生きてきたこの数十年の間にあって、あなたはそれをテレビや新聞越しにせよ目の当たりにしてきているのに?!」という批判の声が、今頭の中を流れたが、喜怒哀楽とさっき使った割には、激しく何か特定の具体的なニュースを題材にして、そんな感情のいくつかを爆発させる、ということは極めて希だった。感覚的には、ないと断言してもいい気がするが、そんな冷淡な人間ではないはずとも思い、希としている。もっとも、そういう揺れ動き方をしてこなかったとはいえ、それだけでは自己否定を徹底的に進めると言う気にはなっていない。
 前置きが長くなったが、ここ最近、というのはちょうどこの年末年始、この場所を再開した頃と重なるが、外部情報の最たるものの一つ、そういうメディアからのニュースを題材に、他人と話し、自分の意見や感情を表出させるなんてことがぽつぽつと出始めていた。殆ど鑑賞したことがなかった紅白であるバンドを持ち上げる一方、別のグループを批判した。飲みの席や一部のコミュニティで共感を得たりなだめられたりした。調子に乗ったままだったと今は思う。そして、今月発覚した一連の国際的なある犯罪のニュースだ。国内の犠牲の方の発生をニュースで知ると、無性にいらいらしてしょうがなくなった。ああ、完全に外部情報を元に書いていることに気付く。すらすらと出てくる。何も苦労を覚えない。これは愚痴と何が違うのか?と思う。では筆を置けばいいというものだが、もう少し続ける。ここで終えると本当に愚痴になってしまうから、その手前で立ち止まりたいと思ったのだ。
 本当に恐ろしいことは、自分の中にあるのだと浮かぶ。そう思いたいのだとも思う。他人に特殊詐欺によって無茶苦茶にされたり、暴行や強盗に遭うのは想像が追い付かない恐怖があるが、それでも、掴みきれない自分の変化による、そうありたくない自分の出現というものの方が怖いはずだ。今回のニュースには、所詮三つ子の精神で怖がっているに過ぎないのだと思う。言ってみれば「おばあちゃん、恐ろしい特殊詐欺がいる、人を殺した連中のようだ、助けて、なんでこんな時代に生きていないといけないの? こんな時代に生かされていることに腹が立ってしょうがないよ!」という超絶な甘えだ。恥ずかしい。そして、これは特殊な気持ちではない。普通に血液だか頭の中だかを漂っている類だと思う。そして、この甘えは、他人を助ける必要性を感じてきた回数の少なさ、それ故の他人を助けた経験の少なさから生じているのでは?と思った。ありきたりだ。ありきたりの回路と袋小路だ。逃走路ですらない。特殊な気持ちを生み出す方が、むしろましというものだ。生きる中で。