Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

美味し過ぎない料理

 外出するはずがもたもたしていたら22時を回っていた。昼過ぎに起きたとはいえ、入り口の扉すら開けずに一日を過ごしたのは、この場所に住んで初めてのことだ。起きてすぐ、いつものように窓を開けたら雨模様で、傘を差している人とそうでない人が混在していた。こういうどっちでも良さそうな状態は嫌いではない。ともかく、洗面を済ませ、室内干しの洗濯物を取り入れて収納し、レタスとソーセージと久々に買ったクラッカーのリッツとコーヒーを朝食として用意していると、14時過ぎとなっていた。何時だろうが朝食だと思えるのが可笑しかったが、かつての記憶とその時浮かんだ考えが蘇っていた。それは、朝食の場合が多いと思うが、美味し過ぎない料理というものには、その吸引力たるやもの凄いというか、長期間消えることのない欲求をこの身体に植え付ける力があるということだ。美味し過ぎないと言わずに、素朴なと言った方がいいのでは?と今日は思いもしたが、やはり美味し過ぎないにしたい。
 これは、かつての記憶と書いた通り、実体験に基づくものだ。パリ北駅近郊の安ホテルで朝食を摂ったことがあった。非常に治安が良くない地域と言う説明を受けるまでもなく、朝食の会場たる小さな食堂も、怪しげな男性二人組が何組かいて、何種類かのハムやパン、スクランブルエッグ、ミルク、コーヒー、プレジデントのバターといった食材を皿に取って自席に戻っていった。静かにビュッフェの食事をしているだけなのだが、それでも犯罪の匂いが立ち籠めているように感じた。向こうからしたら、何このアジア人だったかもしれないし、そもそも眼中になかったのかもしれないが。それでも、時々鋭い視線がこちらに注がれてくるのは分かった。でも、不思議と怖くはなかった。それより、面白いと思った。面白いというのは、後から言語化したものだが、日中、外ですれ違ったら、引ったくりとして私の前に登場したかもしれない雰囲気に満ちた二人組が複数いて、彼らを狼だとしたら、誰も知り合いがいない、土地勘も全くない、言語も分からない場所にいるアジア人の私はいい歳をしていても子羊未満の存在で、両者は本人達は認めなくとも皆変な雰囲気を醸し出しているが、それでもこの食事中だけかもしれないにせよ、直接互いを傷付け合うことはなく、淡々と食事に身を任せているということが面白かったのだ。そして今は、この状態が切なくもある。何かのマンガ作品だったと思うが、温泉が湧き出している場所に、人間だけではなく森に住むありとあらゆる動物が集まってきて、自らの身体を湯に浸している、それをマンガの語り手が「みんな、この湯が傷を治癒する力があることを知っているんだ」のようなことを語っていたのを思い出した。これは、この安ホテルの朝の光景に感じた切なさに似ている。決して共同体というわけではなくばらばらで、皆自分の身体のことに集中しているのだが、それでもどこかほっとするし、信用できる状態だと思う。「か弱いまま必死で自らを修復しながら生きているんだな」と儚さと直向きさにやられながらも、こういう状態が長く続くことはあるのか?と思うから、切なさを覚えるのだろうか?
 美味し過ぎない料理の話をしていたのだった。その安ホテルの朝食がまさにそうだった。不味いと言うのとは違うが、人によってはそういう評価を下すだろう。「美味い:不味い」の二択の評価を強いられたら、不味いと答える人の方が多いと思う。そういう一品ばかりだった。でも、私には、その状況も食事の成分だったからということなのだろう、だんだん美味くなっていくのが分かった。それでも美味し過ぎることはなかった。第三者の理解を無視して続けるなら、素晴らしい時間だった。それからすぐ思い立ったわけではないが、翌年の春から現在の住居での生活を始めてほどなく、連日ではないがその朝食を模倣したメニューを用意することが増えた。それは、「よし!あの日のメニューを」というより、もっと無意識的に始まっていた。頭の中に新たな味覚が設けられたのか、美味し過ぎない料理というか一品の集まり、料理の技術も殆ど必要としないはずのそれらは、一口目からとても美味しく感じられるようになった。今日の最初の食事も、その模倣だったはずだが、やはり美味しかった。これはラッキーなことなのか。そろそろ、美味し過ぎない料理を求めて旅に出る頃合いか。