Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

雨と涙

 通院して、多少なりとも痛い思いをするのが苦手だ。得意だという人はそうそういないはずだから、おかしな文章だ。でも、今日は、少し得をした感のある発見があった。発見した内容自体は決して嬉しいものではないが。それは、こういう痛い思いをするのも、人生全体の中で見れば少数の割合のはずということで、もっともそう信じたいという主観があってこそだが、そういう少数の割合を「残り80回くらいか?」といった具体的な回数に変換しようとすると、人生は短いということが如実に実感できるという発見だった。普段は、人生は短いということは否定しないまでも、他人の言葉のように素通りすることが多いとしたら、明らかに実感の度合いに差があった。
 以前もこの場で書いた気がするが、「あと何回断酒ができるだろう?」という問いをたまに思い浮かべることがある。負や嫌気を覚える側面を帯びた行為や体験も、こういう風に「今後、それ程は残っていない」と考えてみると、貴重な体験になる気がする。断酒9日目の夜、外は雨で、3月に戻ったかのような気温だ。昔、祖母の口から何度も耳にした「雨が降ると暖かいからええわい(雨が降ると暖かいからいいわね)」というのも、久しぶりに思い出した。この発言が当てはまらない時間が長く続いている気がする。雨が降ると余計に寒く感じるからだ。夏は?と自問しても、暑さ寒さではなく、不快かそうじゃないかの二項対立の方が勢力を増してしまった気がする。「あと何回、雨の暖かさを感じる日を過ごすことがあるだろう?」―ここでも最初の文章からの展開を使って、文章を終わらそうとする。こういう思考回路はあと何回繰り返すのだろう?その回数なら膨大な気がする。行為が違えば、同じ1回でもその重みは変わる。そんな当たり前のことに気付いた。考えを進めないという行為における1回には、相当の重さがあると分かる。この重さは悪い意味の重さだ。もっとも、重かろうが軽かろうが、雨が洗い流すことはない行為だろう。同じ液体ということなら、雨に喩えやすいのはやはり涙となるが、その涙なら洗い流せるのか?と浮かんだ。こうなると、何に対する涙か?となるが、突き詰めるまでもなく普段涙しているのは、結局自分に対してだ。例えば、そういう悲しいことを知って自分が辛いという涙だ。そういう涙ではない涙なら洗い流すこともできそうだ。今日の麻酔は結構長く残った。麻酔が取れると鈍い痛みが走る。この痛みで生じる涙は、再度通院して抑えるしかない。