Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ケーちゃん

 気付けばこの半年くらいで、岐阜の郷土料理「ケーちゃん」を食べる機会が如実に増えた。初めて食べたのは、おそらく郡上を訪れた1年4カ月程前だったか、しばらく期間が開いた後、昨年9月頃、近所の大型スーパーで何とはなしに購入したのがきっかけだった。めちゃくちゃ美味いということはなかったが、代わりに、食べ物を粗末にする意味では決してないと断った上で、面白い、楽しいという気持ちになった。袋から取り出した調味料付きの鶏肉が野菜を自分の味に染めていく。鶏肉はといえば、野菜の提供する水分でいい湯だなと言わんばかりにふんわりと中まで蒸し上がるという流れによるものか。今夜もささっと作ったのだが、初回以降の多くの場合同様、ケーちゃんの片面を焦がしてしまった。申し訳ないという気持ちが不足しているということだろう。この点では、面白がっている場合ではない。
 この袋入りの精肉という食材、商品は、幼少の頃の丸大か何かの「袋入り焼肉」を思い起こさせる。パックで売っている精肉とは似て異なるこの比較的長期保管が可能な商品は、味の面では一貫して、圧倒的に美味いというものではない。それでも肝心なはずの味とは無関係であるかのような魅力を放ってくる。何故か?と自問して、家族なり夫婦なり、とにかく一人で食べるものではない感じを最初から帯びているからだろうか?と考えた。もっとも、ケーちゃんを何度も調理してきた私は、私一人の食材としてそれを用意しているのだが。
 幼少の頃の体験は大きく関係しているのだろう。ベランダや浜辺で、ケーちゃんではなかったが、その「袋入り焼肉」を丸く輪切りにした玉ねぎと共に鉄板の上で焼く集まりを、家族単位で親戚と共に行っていた。浜辺にしかれたビニールシートの御座の上に、盛り付けてもらったばかりのチャーハンだか焼き飯を、するっとこぼして「しまった!」と思ったことは、かなり古い、数少ない、おそらく5歳未満の記憶の一つだ。真っ暗な夜だった。「もしかしてこぼしたのかな?」と親戚の知人のような女性に問い掛けられ、父親が「え?本当か?もしそうなら、いかん(悪いことをしている)ぞ?!」のようなことを呟いたのも覚えている。こぼしたことがバレたのかどうかは、まるで思い出せないのだが。
 長期保存されているのか、長期保存しているのか、どちらも正しいのか、ともかく、長期間を経ているという共通項の下、思いだすことと思い出さないことがある。それらの保存状態は生のままのものと「袋入り焼肉」や「ケーちゃん」のような保管の工夫を施したものと、あるいはそのハイブリッドと、色々ありそうだが、思い出した後の味わい方もまた色々あるのだろうか?今の状況というのが一緒に投入される食材なのだろうけれど、実際の食べ物と違うのは、また保存されるということだ。何かふとしたことをきっかけに、隠れていた記憶が現れることもある。実は、本当に思い出すのは、思い出しているのは、思い出すべきは、そうした過去の記憶を元にした、「これからどうしたいか?」や「これから何をするのか?」といったたった今この場にある記憶の元ではないか?と思った。これらは十分、焦がしてしまう危険性を帯びているものだ。