Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

哀しくて怖い感じ

 ケータイやスマホを携行するようになってから、もう25年くらいになる。当初からカメラ機能を使って撮影することはあったが、スマホ以降はケータイに比べて激増しており、カメラ機能というよりもはやカメラといった方が違和感はない。紙の写真よりも、タイムスタンプで時系列を認識しやすいからか、時々昔の画像を眺めて、「あれからもう3年も経っているのか?」と一人実際の時間と意識上の時間の差異を感じ、その違和感に驚くのを楽しむという情けないままごとのようなこともまた、スマホ以降になって、特にこの数年増えている。

 経年の表現において、紙の写真の方に軍配が上がるものもあるだろう。色褪せ等での経年変化がそれだ。画像の場合は、そうはいかない。もっとも、紙の場合だって持ち主にとってみれば、そういう経年変化はなるべく避けたいだろうから、経年の表現という括りには、相応しくないともいえる。そうなると、写真や画像そのものではなく、閲覧者側、鑑賞者側にその表現は委ねられたと考えたくもなり、もう一度冒頭以外の行為を探してみる。なかなかそんなに見付からない気がしたが、紙の写真の場合、比較的近年でも、どこか別世界の感じや、全く違う時間軸のような感じを覚えることができるのに気付いた。それは、画像の場合と比べると顕著だった。一方、画像の方が、身体的な距離の近さや時間軸の近さを覚える。あくまで私の独善的な感覚なのだろうが、この違いを新鮮に思う。

 どちらがいいということでも、どちらが好きということでもない。どちらも必要だ。ただし、紙の写真にもデータの画像にも、さらには動画にも、喜怒哀楽でいうと哀を、そして嫌悪といった悪い意味ではなく怖さを覚える。怖いというのは喜怒哀楽のどれだろう?と、自分の中ではっきり分類できていないことや、恐怖というより怖さとした方が嫌悪感が減ることに今更気付くことにもなった。ともかく、哀しくて怖い感じに着地するという共通項がある。

 ここで解像度と情報量を持ち出したくなった。というのも、高精細なとりわけ映像の場合だと、上述の様々な感覚が緩和されるというか、もちろんコンテンツの内容にも依拠するのだろうが、あまり時間が経っていない、ごく身近な映像のように錯覚出来ることが多いからだ。そして、そういうことが怖くあって然るべきだが、怖さも軽減している気がする。技術的なことにはてんで疎いままだが、写真と映像(動画)のハイブリッド、あるいはテキストや音声以外の第三の記録媒体はあるのか?と思う。それが人の知覚であり記憶ということだと、これからも永遠に星の数より多い喜怒哀楽が繰り返されることを想像して、途方もない気になる。何を記録しようとしており、何を忘れようとしているのだろう?という問いも浮かぶ。