溺れているのに生きている
季節は巡るというように、カレンダー的に、一年前はこうだったからこの時期はこうだろうという予想の確率がある程度高いものだったり、当てになることは分かっている。その一方で、そういう円環に対しての懐疑心というのもある。特に、あれから今日で何年や何周年というのには、そうした気持ちがより強く表れる。今日で何千何百何日と言った方がまだましな気になる。東京の路線に喩えれば山手線より中央線といった感じだ。いや、その山手線とて、時間軸の上からは脱線できないのだから、本当はループしているとは言えないのだがと思う。
周年の便利なところに、忘却があると思う。普段は忘れてしまう状態を継続できる。でも、その周年当日とて、本当に思いだしているといえるのか?と思う。何日目だろうが、これまでよりも深くだったり、正確にだったり、忘れていたことを何故か思い出すことが出来たという意味で広くだったり、思ったり考えたりが出来る時、謝罪や感謝もまた同じような到達度を持つのではないか?と考えてみた。そう考えないと自分が耐えられないからだろう。耐えられないからといって、自分で自分を消すような度胸はないのだが。消えていった人達は、殆どが消えさせられた人達だろう。一方の自分は、消えさせられた自分をどれだけ持って過ごしているのだろう?毎日、消えさせられるべき自分を保護しながら、深刻ぶることには長けている。アルコールへの耐性だけは高止まりか?といったところで、せっかく到達した良い視界と思しき場所からもすぐに降下する毎日だ。溺れているのに生きている。空を見たいなら、周年より何日目かの方向に、まだ可能性があると思った。