Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

アップダウン

 先日、とある新設の文学賞に応募締め切りまで1時間というところで書き始め、55分で書き上げた原稿用紙4枚を応募した。この、1時間前に文学賞向けに書き始めているという状況はそのまま作品の中にも反映し、作者が語り手となって主人公を描写しているという構図にした。こうしたメタフィクション的な設定は、気付けば当たり前になって、食傷気味でもあるのに、選択してしまうことが多い。もう20年以上前か、ギターで曲を作る際、ごくありふれた循環コードだけで作り終えることができなくなっているのに驚いたのを思い出した。手法や構図にばかり力を入れているような気にもなってくる。
 総じてというか概してというか、私も含め、大体の人が、この20年の間で文章を書くということに手慣れたのではないか?と疑問形は取っているが確信めいた想像が浮かぶ。直感を続けるなら、それはどちらかというと幸か不幸かの不幸に属する状況な気もする。この20年なら20年の同じ期間のうちに、周囲というより周囲の視線を想像したり観察したりといったことに長けた、あるいは手慣れたのかもしれない。でも、頭や手を止めるわけにはいかないことは分かっている。これは確信めいた想像だろうが、断定しないと自分の停止に繋がる命綱だからだ。
 大型スーパーで、レジ袋を当たり前にもらって、その中に商品を詰め込んでいたのは、20年前もついこの間までも変わらない。最近はレジ袋がもっぱらエコバッグやトートバッグに変わっただけのことだ。それでも、気付けば、いつの間にか、購入した商品が入りきらないような、ぎゅうぎゅうな感じを覚えることが増えている。ぽんぽんと買いたいものをカゴに放り込んでいたらそうなるのは当たり前だろうが、そんなに軽率に購入している意識は昔も今もないのだが、最近はそうなってしまう傾向が高い。こじつけのようだが、こうした物品の購入に対しても、身に付けなくても良かったという意味で余計な手慣れた所作、意識を獲得してしまったのでは?と勘繰ってしまう。
 右肩上がりという言葉は、書くのも嫌になるくらい、自分が使う言葉としては借り物の印象を覚える。それでも、無意識にも右肩上がりに捉えてしまっている事象が存外多い事に気付く。会社の業務の中だと、例えば企業の資本の推移だとかが該当する。減資があるのは当たり前なのに、「あれ?ずっと増えていたのに、この年、急に減っている。なぜ?」と思ったりする。スーパーが登場していたのでもっと日常の話に戻ると、20年前からさらに20年以上前の1970年代後半頃の光景を思い浮かべる。根拠は希薄だが、その頃はその20年後の1990年代後半よりも、総じて若者(20代としておく)の身長は高かったという印象が強い。生活や生活習慣に余裕があり、偏らない食事と適度な運動が70年代にはまだあったからだ、などともっともらしい理由を想像することになった。アップダウンがあるものもまた、もっともらしく見えるが。