Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

符号

 昼間出先でふとスマホを覗くと今の西暦の数に近い歩数が表示されていた。一呼吸も置かぬ間にラッキーだと思った。続いて、「そのうち、というのは西暦2万年くらいになったらこんな風に嬉しく思うこともなくなるのか?」と思った。昼までに一日2万歩も歩くのは相当なことだと思ったのだ。そして、細かい各所への突っ込みも交え始めた。「西暦があるのか?」「社会や人間が歩行をどの程度必要としているのか?」「その前に人間が人体を必要としているのか?」「歩数を図るという概念は残っているのか?」エトセトラ。そう思っただけでも、絶妙なタイミングが成し得た認知だと思う。ちょっと寂しい気持ちにもなった。
 組み合わせ、紐付け、符号。今回はタイトルに符号を使ったが、この3語は互いに似た意味のものとして結び付いているといえる。そういう意味で、互いの意味を互いに保有し合っている。これもまた、数年、数百年、数千年、数万年と経るうちに、結び付きが解けたりするのだろうか? そう自問して、「ないとはいえない」と思って、これまた寂しい気持ちになった。
 昔、何となく考えて、はっとしたことだが、「全ての意味のある言葉は、いずれも符号化され得るのではないか?」という想像がある。要は前述のように、「互いの意味を互いに保有し合っている」と思ったのだ。「真逆の意味として認知されている言葉同士でも、実は同じ意味である」ということを言いたいのだが、互いの言葉の関係性を説明する言葉を持ち出さないで、純粋にお互いが互いの意味を持っているとなると、俄かには想像し難い言葉も沢山あるだろう。
 それでも、反対語や対義語のようなものは、基本的に単語であるから、まだ捉えやすい気がする。一方、複数の文から成り立っている何らかの文脈となると、難易度はたちまち上がる気がする。こうした文脈同士を同一なものとして捉えるには、結局、今のところ、頭の中で、一つの、あるいは時には複数の単語とその一文を結び付けて、つまり、符号化して短縮化を図るという作業を経ないと、少なくとも私には難しく、手に負えないものだ。ここでまた、寂しい気持ちになるかといえば、意外にも、そういう困難があることに、希望めいた気持ちが浮かんでいることに気付いた。この気持ちを上手く説明する、そういう符号を進める前にまた就寝する。