Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

春の病院

 これだけ病院が溢れているようでその実、自分や自分の症状にぴったり合ったと感じる病院に巡り合うのは、簡単ではないだろう。よくよく考えてみたら、当然でもあり、なんで未だに?と相反する考えが浮かんだ。当然というのは、人間の身体の奥深さであり、数千年か数万年か、否、実効性を別にして人類誕生と同時に医学は誕生していたと想像すれば、今後もいたちごっこのように、人間の身体は医学の先を進み続ける気がして気が遠くなるといった意味でだ。未だにというのは、金銭の多寡を別にすれば、医学は確実に進化してきており、また、情報共有だってそれ以上の進化と普及でき得るインフラを獲得しているのだから、意図的に制限でもない限り、数多ある病院から自分に合った病院の対象を数カ所くらいには絞り込むことができないとおかしいだろう?という意味でだ。
 病院の数と同様に、病院の口コミだって少ないわけではなく、今や目の当たりにはできる。それだけにもどかしい気持ちになる。そのテキストや画像からの情報を何故十分に汲み取ることができないのか? これでは、まだ通ってもいない病院のことを考え続けるうちに、病院に行かないといけないような神経症になるのも起こり得る気がする。
 一方、世界にはと始めてみるが、「世界には、未だに解決されそうで解決されていない具体的な問題が近所のレベルで転がっている」という風に言い換えてみると、桜ではないが、春めいた希望のような感情が灯り始めなくもない。衣替えのように病院を変えるというのはまだまだ不自然なことに映るが、病院間、病院と通院前の我々間、病院と通院後の我々間にもっと風通しの良い状態があるといいのは間違いない。そうなると、結局が薬局、病院の中に「談話」「茶の間」「公民館」といった、既存にはあまりあるとは思えない別の要素が入り混じるという意味での共同体的な状態が必要になるのだろうか? そうだとしたら、否、そうでなくても、今の病院という存在は、健康体には映らない。絞ることと広げることの両方が必要ということだと、いつもの袋小路に舞い戻った。でも、これは以前と同じようでそうではなく、巡り巡って新しい春といった状態なのか。春の小川のように血液もさらさら行くのがいいのは間違いないが、そうした血液を使って、粘り強く考える一年に、と言いながらもう4月となる。