Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

最後のお願い

 「最後のお願いに参りました」の声が鳴り響く街を通り抜け、帰宅した。選挙だ。咄嗟に「巨泉の方がいい」と浮かんだが、そうも言ってられない。気付けばもう10年以上、確信のない投票を続けている。立候補者が悪いわけではない。自分が支持した立候補者が当選するしないではない満足や納得を得るだけの毎日を過ごしていないから、確信が持てないのだと思った。では、そういう満足や納得というのはどうすれば生じるのか?と自問して、「自分で変化をコントールしながら、その変化を途絶えさせずに進み続けている、そういう実感がある状態から生じるはず」と自答した。これが正しいと仮定するなら、私の場合、この場を含む文章を書くということが、挙げられるだろう。一般化を図るなら、子育てがまず浮かんでくる。
 文章を悩みながらも書き進めていると、酒がもたらす恍惚感にも似た快を覚えることがある。この快は、他の多くの快とは違って、耽溺してもそれほど悪い作用を及ぼすようには思えない。仮に悪い作用を自身に及ぼしても、それはそれで納得を覚えることができると思ったので、どちらにしろ、文章を書くということは自分にとって納得を与える自助行為といったところかもしれない。ならば、その快に耽溺したいところだが、生活があるので、ずっとというわけにもいかない。それならと、その快の先にある快を目指して考えを進め、文章化することを、今はその解決策にしようと思った。
 こうして、もっともらしいことを挙げ連ねはしたが、事実、原稿用紙換算で毎日3から4枚程度の、なるべく日記然とした日記ではない散文を、この場所に毎日欠かさず書いて100日以上が過ぎた。最近は早くお酒を飲みたいがために、性急に書く素材を自分の中に問い、見付かったと思ったら、再び性急に書き終えようとするも大してうまく行かず奮闘することが増えているが。飲酒して文章を読んだり書いたりはしたくないという自分へのルールはどういうわけか守っているのだ。その一方で毎日、「今日から断酒します」と先祖に手を合わせ告げている。
 いつも立ち寄る大型ショッピングモールの食品売り場に、数日前から、パッケージだけを新調したようなビールが登場している。大々的に特設スペースが設けられているのを見て、多業種間の合従連衡既得権益といった当たり前の言葉が浮かんできた。尾崎豊が昔、「夜の街に天使を装うアルコールの慰安婦」と、文字にしたら別になんてことはない言葉を歌にして歌っていたが、これが音源で聴くと、夜の街が立ち現れるような再現性を伴っていて、聴いていて、悪酔いしそうだが素通りできない妙な魅力を放っているのを思い出した。自分を生かそうとするのと同じくらい、自分を殺そうとするプログラムが人間には備わっている気がしてくる。とはいえ、まだまだ最後のお願いはしたくないなと思う。