Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

さすがの音飛び

 購入後4年目くらいとなるCDプレーヤーが、音飛びをし始めている。今朝はいつにも増して顕著で、一向に再生されないまま耳障りな摩擦音だけが響き続けた後、傷一つないCDに対し「ディスクエラー」表示が為される有様だった。その文字を目の当たりにしながら、「数十年前なら修理という選択肢をすぐに思い浮かべていたはずだが、いつの間にかそうではなくなっている。気付けば、修理を求めても徒労に終わるのだろうなという諦観が現れるようになっている。新しい商品を購入するより、少し費用が掛かっても修理ができるならそうしたいという気持ちも少なからずあるのに」と思った。
 何でもかんでもアナログやレトロの肩を持つわけでは決してないが、現在の製造から流通、その後の修理体制といった一連の流れには、明らかに窮屈で味気ない、寂しい感じを覚える。パソコンのトラブルの手厚いサポートが当たり前になっているとしても、修理という行為は時代と共に遠い彼方へ去っていき、ある時途中で木の枝に引っ掛かかって一時的に留まっている印象を覚える。こういう流れに対してこそ、再生速度を簡単に変更するような仕組みは設けられないものか?といったぼんやりとした調子のいいことが浮かぶ。
 ここまで書いていて、「音飛び自体を楽しむことができる、そういう方向への気持ちの変化もあるか?」と思った。即座にそんなの嫌だと強い否定の気持ちが湧いてくる。意図的なものもありだとすれば、もう数十年前からスクラッチといった、音飛びを楽しむものもあるが、それとこれとは一緒にできない。ちゃんと再生できることと、音飛びを楽しむことは、少なくとも私の場合、等分ではなく、数字で表すなら9割9分ちゃんと再生できるから、もう一方の1分が成り立つのだ。こういう不等分な関係というのは、自分の中にまだまだ見付けることができるだろう。シンメトリーなものが時に不自然に映るデザインと同じで、この場合、不等分な方が自然に思える。
 文章の場合はどうか?と思う。文章の音飛びというものは? そんなの常にそこら中に溢れていると思う一方で、否、それは音飛びではなく、正しい文章(文法的にという意味に留まらない)自体をまだ書いていないだけではないか?とも思う。文章における音飛びというのは、正しい文章を書き残していたが、それが無効になるような状態だと思ったからだ。この場合の無効とは、紙が破れた、データの一部が消えた、といった物理的、媒体的なものではないと思いたい。それでは、当たり前過ぎるからだ。文章として記録上は残っているが、その後の文章によって、それが無効となる、そういう関係が浮かぶ。「吐いた唾は飲めんのやで」と幼少時に私に何度も言っていた大阪の親戚の叔母を思い出した。思い出すということも、何か、音飛びに似ていなくもない。本当はもっと前か後に思い出すところを、何かのきっかけがそのタイミングをずらしたと。そこまで言うなら、皆音飛びか。さすがの猿飛という作品があったな。